チョケた塗下駄《ぬりげた》を穿いていた。
 銀次は張合いが抜けたように、その姿を見上げ見下した。
 小女《こおんな》は美男の銀次に見られて真赤になってしまった。背後に隠していた一升徳利と十円札を銀次の鼻の先に差出しながら、消え入るように云った。
「お酒を一升。一番ええとこを……」
 銀次が無言のまま頭を下げてお金と徳利を受取ると、小女はよろめくように潜戸の端に凭《よ》りかかって頸低《うなだ》れた。
 銀次は新しい酒樽からタップリ一升引いて小女に渡した。それからラムプをグッと大きくして、押入の端の小箪笥の曳出《ひきだ》しから黄木綿《きもめん》の財布を引っぱり出して、十円のお釣銭《つり》を出してやった。
「姉さん、どこから来なさったとな」
 と顔をさし寄せて訊いてみたが、小女はチラリと上目づかいに銀次の顔を見たきり、首の処まで真赤になってしまった。無言のまま逃げるように潜戸の外へ辷《すべ》り出てしまった。
 あとをピッタリと閉めて、掛金をガッチリと掛けた銀次は、そのまま町の方へ去る小女の足音が聞こえなくなるまで聞き送っていた。ニンガリと笑い笑いつぶやいた。
「……ヘヘ……とうとう来やがった。可愛相だが悪魔《デベル》様の犠牲だ。ヘヘ。待っていたぞ畜生……うまく行けあ俺の信心は満点だ。大阪の金持以上の根性になれる。ヘヘ……義理も人情も、神も仏も踏殺して行けるんだ。怖いものなしになれるんだ。ヘヘ。立身出世自由自在だ。ヘヘ。待っていたぞ畜生……」
 そんな独言《ひとりごと》を云っているうちにタッタ一人で真青に昂奮したらしい銀次は、緊張した態度でセカセカと身支度を初めた。
 最初に此家《ここ》へ来た時の通りの手甲脚絆《てこうきゃはん》に身を固めて、角帯をキリリと締め直すと、押入の前にキチンと坐った。藤六が居た時のままになっている粗末な仏壇の前に坐って、赤い金襴《きんらん》の帷帳《とばり》の中から覗いている茶褐色の頭蓋骨を仰ぎながら、何かしら訳のわからぬ事をブツブツと唱え初めた。それから自分の頭の毛を両手でゴシゴシと掻きまわして礼拝し、礼拝しては掻きまわして四度ばかり繰り返すうちに、やがて猿のような卑しい冷笑を、顔一面に浮べながらスックリと立上ると、押入の反対側の隅の小箪笥から、もう一度、黄木綿の袋を引出して、かなりの額《たか》の円札や銀銅貨を叮嚀に数えて胴巻に入れた。同じ曳出《ひきだし》の中に在った鋭いらしい匕首《あいくち》も中身を検《あらた》めてから懐中《ふところ》へ呑んだ。やはり押入の向側から鉋飴売りの足高盥《あしだかだらい》を取出しかけたが又、押入の中へ投込んだ。
 それから銀次は上り口に飯櫃《めしびつ》を抱え出して、残りの飯と、店に残った皿のもので、湯漬飯《ゆづけめし》を腹一パイガツガツと掻き込むと、仏が生前に帳場で使っていた木綿縞の古座布団を一つ入口の潜戸の前に投出した。ラムプを吹消して、手探りで草鞋《わらじ》を穿いて、地面《じべた》へジカに置いた座布団の上にドッカリと坐って、潜り戸に凭《よ》りかかりながら腕を組んで眼を閉じた。
 月の光りを夜明けと間違えたのであろう。どこか遠くで鶏《とり》の羽ばたきと、時を告げる声が聞こえた。

       3

 それから一時間ばかり経ったと思う頃、潜戸の外で微かに人の気はいがした。
 シンシンシンシンシンという軽い、小さい鋸《のこぎり》の音が忍びやかに聞こえて、銀次の襟首へ煙のように細かい鋸屑《のこぎりくず》が流れ込んだ。最前の小女《こおんな》が凭りかかっていた処へ横一寸、縦二寸ばかりの四角い穴がポックリと切開かれた。そこから西に傾いた月の光りが白々とさし込んだ。
 銀次は潜り戸からすこし離れて坐ったまま一心にその様子を見ていた。
 やがてその穴から白い小さい手が横になってスウッと這入って来た……と思うと何かに驚いたようにツルリと引込んだ。
 銀次は動かなかった。なおも息を殺して四角い月の光りを凝視していた。
 今一度小さな手がスウッと這入って来て、掛金《かけがね》の位置を軽く撫でたと思うと又、スルリと引込んだ。
 銀次は依然として動かなかった。
 三度目に白い小さい手がユックリと這入って来て、掛金にシッカリと指をかけた時、銀次は坐ったまま両手を近づけてその手をガッシリと掴んだ。掴んだままソロソロと立上って手の這入って来た穴に口を寄せた。低い力の籠《こ》もった声でユックリと囁《ささや》いた。
「……オイ……貴様は巡礼のお花じゃろ。……もうこうなったら諦らめろよ」
「……………」
「俺の顔を見知って来たか……」
「……………」
「俺がドレ位の恐ろしい人間かわかったか」
「……………」
「わかったか……阿魔《あま》……」
「……………」
「……俺の云う事を聞くか……」
「……………」
「聞かねばこのまま突出すがええか……警察は俺の心安い人ばかりだ」
 白い手の力がグッタリと抜けたようであった。
 銀次は片手で女の手首をシッカリと握り締めたまま油断のない腰構えで掛金を外した。黒覆面に黒脚絆、襷掛《たすきが》けの女の身体《からだ》を潜戸と一所《いっしょ》に店の中へ引張り込んだ。同時に水のように流れ込んで来る月明りに透かして女の全身を撫でまわすと、内懐《うちぶところ》から竹細工用の鋭い刃先の長い、握りの深い切出小刀《きりだし》を一挺探り出して、渋紙の鞘《さや》と一所に、土間の隅へカラリと投込んだ。ホッとしたらしく微笑して女の覆面を見下した。
「……俺の名前を知って来たんか」
 覆面が頭を強く振った。シクシクと泣出して、
「……すみまシェン。草鞋銭《わらじせん》に詰まって……」
 と云ううちに覆面を除《と》ると、最前の小女の青褪めた顔を現わしながら銀次の胸にバッタリと縋《すが》り付いた。シャクリ上げシャクリ上げ云った。
「……貴方《あんた》を見損なって……」
 銀次は月明りを透かして外を覗きながら何かしら冷やかに笑った。今一度、猿のように白い歯を剥き出した醜い表情をしたと思うと、片手で潜戸を締めて掛金をガッキリと掛けた。落ちていた四角い木片《きぎれ》で潜戸の穴を塞《ふさ》いだ。
 それから一時間ばかりの間、家の中には何の物音もしなかった。そのうちに二十分間ばかりラムプがアカアカと灯《つ》いていたようであったが、それもやがて消えてシインとしてしまった。
 月がグングンと西へ傾いた。
 方々で鶏《にわとり》が啼いて夜が明けて来た。

 突然、家の中からケタタマシイ叫び声が起った。魂消《たまげ》るような女の声で、
「……何すんのかア――イ……」
「………」
「アレッ……堪忍してエ――ッ」
「……………」
「……嘘|吐《つ》き嘘吐き。ええこの嘘吐き……エエッ。口惜しい口惜しい口惜しい口惜しい……」
 という叫び声と一所にドタンバタンという組打ちの音が高まったが、それがピッタリと静まると、やがて表の板戸が一枚ガタガタと開いて、頬冠りをした銀次の姿が出て来た。銀次の背中には、細引でグルグル巻にして、黒い覆面で猿轡《さるぐつわ》をはめた小女を担《かつ》いでいたが、そのまま月の沈んだ薄あかりの道をスタスタと町の方へ急いだ。
 女は銀次の背中でグッタリとなっていた。

       4

 直方署の巡査部長室の床の上に、猿轡を外された小女が、グルグル巻のまま寝かされていた。銀杏髷《いちょうまげ》がグシャグシャになって、横頬を無残に擦剥《すりむ》いていたが、ジッと唇を噛んで、眼を閉じて、横を向いていた。
 その周囲を五六人の警官が物々しく取巻いて、銀次の陳述に耳を傾けていた。
 中央に立った銀次は、すこし得意そうに汗を拭き拭きお辞儀をしては、横の火鉢に掛かっている薬鑵《やかん》の白湯《さゆ》を飲んだ。
「……ヘエ……お褒《ほ》めに預るほどの手柄でも御座んせんで……ヘヘ。あんな離れた一軒家で、前の藤六から以来《このかた》、小金《こがね》の溜まっているような噂が立っているそうで御座いますから、いつも油断しませずに、出入りのお客の態度《ようす》に眼を付けておりましたお蔭で御座いましょう。ヘエ。……この小女《あま》っちょが這入って来た時に、この界隈の者でない事は一眼でわかります。第一これ位の縹緻《きりょう》の娘は直方には居りませんようで……ヘヘ。それから一升買いに十円札を突《つ》ん出す柄じゃ御座んせんで……どう考えましても……ヘエ。それで一層気を付けておりますとこの小女《あま》っちょ奴《め》え、潜り戸に凭《もた》れかかる振りをしてマン中の桟から掛金までの寸法を二本指で計ってケツカルので……ヘエ。それから私が十円札の釣銭《つり》を出すところを、うつむいたまま気を付けている模様ですから、私はイヨイヨ今夜来るなと思いました。来たら出来るだけ身軽にしとかんと不可《いか》んと思いまして、慣れた者の飴売りの身支度をして待っておりますと……ヘエ。ツイ一時間ばかり前の事で御座います。掛金の上の処を切抜きました小女《あま》っちょが手を入れましたけに、直ぐに引っ掴まえて引っくくり上げて、ここまで担いで参りましたので……ヘエ」
「成る程のう。貴様は気が利いとるのう。素人には惜しい度胸じゃ。アハハハハ……」
「フーム、コンナ常習犯の奴の手口は、アイソ、サグリ、ノリと云うて、三度手を入れてみるものじゃがのう。最初に手を入れた時に捕えようとしても決して捕えられるものじゃないがのう」
 これは銀次と肩を並べている痩せ枯れた胡麻塩鬚《ごましおひげ》の巡査部長の質問であった。しかし銀次は平気で答えた。
「ヘエ。そげな事は一向存じまっせんでしたが、ただこの外道《げどう》と思うて待ち構えておりますところへ、遣って参りましたので思い切り引っ掴んでしまいましたが……ヘヘヘ……」
「オイオイ……女……それに相違ないか」
 巡査部長が靴の先で小女《こおんな》の頭をコツコツと蹴った。
 小女はヤット眼を見開いて、冷やかに頭の上を見た。噛んでいた唇を静かに嘗《な》めまわすとハッキリした声で云った。
「……この縄……解《ほど》いてくんさい。白状するけに………」
「……ナニ……縄を解け……?……」
「……アイ………」
「そのままで云うてみい」
「イヤイヤ、このままならイヤぞい。痛うて物が云われんけに……どうぞ……」
 小女は又もシッカリと眼を閉じて唇を噛んだ。訊問に慣れているらしい巡査部長は、凹《くぼ》んだ眼でマジリマジリと小女の顔色を見ていたが、やがて大きく一つうなずいた。傍の巡査を腮《あご》でシャクッた。
「オイ。解いてやれ」
「ハッ」
 若い巡査が二人で女を抱え起して泥だらけの板張の上に横座りさせた。
 これを見た銀次はチョット狼狽したらしかった。巡査達の顔を素早くツラリと見渡したまま固くなっていたが、やがて覚悟をきめたらしく、軽いため息を一つ鼻から洩らすと、縄を解《と》く邪魔にならないように、すこし横に立退《たちの》いた。入口に立っている巡査の背後をスリ抜けて一気に表へ飛出せる位置に立った。古ぼけた博多の角帯の下に、右手の拇指《おやゆび》を突込んで直ぐに結び目を前へ廻わせる準備をしていたのを誰も気付かなかった。
 キチンと座り直した小娘はそうした銀次の態度をジロジロと横目で見ているようであった。巡査に取捲かれたまま縄を解かれると、すぐに襷《たすき》を外して、肩のあたりをシキリに揉《も》んでいた。それから裾《すそ》をつくろいながら中腰に立上って、膝を揉んだり押えたりした。そうして又もペッタリと座り込むと鬢《びん》のホツレを指先で掻上げながら咳払いを一つ二つした。
「……すみません。お湯一パイくんさい。咽喉《のど》がかわいて叶《かな》わぬけに……」
 と頭を下げて、カンカン起った火鉢の上の大薬鑵に手をかけると、思い切って立上りさま天井を眼がけて投上げた。灰神楽《はいかぐら》がドッと渦巻き起って部屋中が真白になった。思わず飛退《とびの》いた巡査たちが、気が付いた次の瞬間にはモウ銀次と小女の姿が部長室から消え失せていた。

       5

 部長室から飛出した
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング