ない。その暗い三坪ばかりの土間に垢光りする木机と腰掛が並んで右側には酒樽桝棚、左の壁の上に釣った棚に煮肴《にざかな》、蒲鉾《かまぼこ》、するめ、うで蛸《だこ》の類が並んで、上《あが》り框《かまち》に型ばかりの帳場格子がある。その横の真黒く煤《すす》けた柱へ「掛売《かけうり》一切《いっさい》御断《おことわり》」と書いた半切《はんぎり》が貼って在るが、煤けていて眼に付かない。
 主人は藤六《とうろく》といった六十がらみの独身者の老爺《おやじ》で、相当|無頼《なぐれ》たらしい。黥《いれずみ》を背負っていた。色白のデップリと肥った禿頭《はげあたま》で、この辺の人間の扱い方を知っていたのであろう。坑夫、行商人、界隈の百姓なぞが飲みに来るので、一パイ屋の藤六藤六といって人気がよかった。巡査が茶を飲みに立寄ったりすると、取っときの上酒をソッと茶碗に注《つ》いだり、顔の通った人事係《おやかた》が通ると、追いかけて呼び込んで、手造りの濁酒の味見《きき》をしてもらったりした。
 この藤六|老爺《おやじ》には妙な道楽が一つあった。それは乞食を可愛がる事で、どんなにお客の多い時分でも、表口に突立って這入らない
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