、このころはもう余程うちの都合がよくなっておりましたらしく、お父様は家《うち》の処々を修繕なすったり、犬や猫が畠を荒らさぬように家《うち》のまわりの生垣を取り払って、その頃|流行《はや》り初めました赤い煉瓦の塀にしたりなすったので、何もかも見ちがえるように立派になりました。その中を親子三人で見まわりながらお父様は、
「なぜコヤツの下(私の妹か弟の事)が生れぬのじゃろか。今一人か二人か居らんと家が広過ぎるがなあ」
 と云われた事がありましたが、その時もお母様は何ともいえない暗いような冷たいような顔をなすった事を、おぼえております。
 うちがこのように立派になりましたにつれて、お母様も前のように安いお仕事ばかりをお引き受けにならぬようになりました。お稽古に来る近所のお弟子にお教えになる外《ほか》は、極く上等の押絵や刺繍のようなものばかりを作っておいでになりましたが、それでも中々沢山ある上に、手間の安い仕事の五倍も十倍もかかるような物ばかりなので、お忙がしくないように見えて、なかなかお骨が折れるのでした。その押絵のメンモクはやはり皆、私とお母様の眼鼻が入れ交《まじ》っておりますので、上等のものであればある程、お母様は私の眼鼻をよけいにお使いになるので子供心にも不思議に思い思いしておりました。
 けれどもその中《うち》に、タッタ二度ほど、お父様のお顔をお使いになったことがありました。
 それはどちらも私が十二歳になりました春の事で――初めの時は、大阪の或る店から外国の金持ちに売るのだと申しまして、金の額ぶち入りの押絵を頼んで来たのでしたが、その時にお母様はいろいろ工夫をなされまして、外国の事だから、日本の人物よりはというので支那三国志の関羽、張飛、玄徳の三人を極く念入りにお造りになりました。それについてその顔《メンモク》のお手本は錦絵の通りにしますと関羽が団十郎、張飛が左団次、玄徳が円蔵(でしたと思います。違っているかも知れませぬ)ということになっておりましたが、その錦絵はもうスッカリ鼠色にボヤケてしまった昔の版でありましたために、お母様のお気に入らなかったのでしょう。お父様に頼んで、火鉢の前に坐って頂いて幾つも幾つも顔を書きかえておいでになりました。その時に、
「俺は貴様の押絵になって外国へ行って異人どもを睨み殺してくれるのじゃ。……こういう風に……」
 と云いながらお父様が不意に立て膝をなすって、ヒンガラ眼をしてお母様をお白眼《にら》みになりましたが、そのお顔の怖ろしかった事……私もお母様もハッとして飛びのいたほどで御座いました。そうして、そのあとで三人が笑いこけました時の可笑《おか》しかったこと、私は死ぬかと思いました。
「まあまあ御覧なさい。筆が火鉢に落ちました」
 と云いながら、お母様が灰だらけの毛書《けが》き筆を火箸《ひばし》でお拾いになりましたので、三人は又涙の出る程笑いこけましたが、お母様がこんなに心からお笑いになるのを見ましたのは、後にも先にもこの時だけであったように思います。
 こうして顔が出来上りますと、それに鬚《ひげ》や髪の毛を植えて、関羽と張飛は眉まで植えまして、お母様のお得意の浮き出し人形が出来上りますとその厳《いか》めしさと立派さは眼もさめるようで、ことにその中でも張飛の眼は、お父様に生き写しのように思われました。それを聞き伝え云い伝えして見に来る人が又沢山にありましたが、その中にはあのお金持ちの柴忠さんも見えまして一生懸命に力んで感心をしながら、こんな事を云われました。
「どうも奥さんのお手並には今更ながら感心しました。失礼ですがこの前の阿古屋の琴責めの時よりもズンと名人におなりになったようです。つきましては、お忙がしうも御座いましょうが今一つこの通りのを作って頂いて博多ッ子の氏神の櫛田神社にあの阿古屋の琴責めと並べて奉納致したいと思いますが如何でしょうか。実を申しますとこの前の阿古屋のお人形を家《うち》に置いておきますと、そのためのお客がうるさくてたまりませんので、娘の名前で櫛田神社に奉納したのですが、その当時はあれを見に来る人のために、お宮の賽銭《さいせん》が違ったと申す位で……イヤイヤ決してお世辞を云うのでは御座いませぬ。流石《さすが》に博多は諸芸の都だけあると皆《みんな》、感心をしておりましたので……そこへちょうど私が櫛田様へ御願《おがん》を立てて運動に取りかかりました株式の取引所が、このごろ鰯町《いわしまち》の私の地所に来る事になりましたので、その御願ほどきのために奥様の押絵を上げましたならば神様もきっとお喜びになる事と思って伺いました次第です。よい錦絵が御入用なら何程でも取り寄せて差上げます。この頃は汽車というものがありますから、東京へ電報を打てば十日足らずで着きますから」
 というようなお話でした。
 その時のお母様のお喜びになった御様子は今でも眼に残っております。手を揉《も》み合せて顔を真赤にして、さも心配に眼を潤ませて、お父様の御返事を待っておいでになる物ごしが、まるで赤ん坊のようにイジラシク見えました。
 お父様は直ぐにお許しになりました。しかも大乗気の御様子で、
「奥(お母様のこと)はわしの顔を手本にしてこの三国志の人形を作ったのでナ」
 とその時の模様を大自慢でお話しになりましたので、お母様は恥かしがって真赤になったままお台所の方へ逃げておいでになりました。私もすぐにあとから追っかけて参いりましたが不思議なことにお母様は、いつの間にか青い顔におなりになって、台所の上り口に腰をかけてシクシク泣いておいでになりましたので私もビックリしました。そうしてどうなすったのかと思ってお傍へ行ってお顔を覗《のぞ》き込みますと、お母様はもう大きくなっている私の身体《からだ》を赤ん坊のように抱き寄せて、私の鼻のお化粧を鼻紙でお直しになりながら、
「私は錦絵さえいただけばお金なんか要《い》らんのに、お父様はいつまでも慾の深いことばかり仰有って………」
 と、さも口惜しそうに唇を噛んでホロホロと涙をお流しになりました。その時にお座敷の方から、お父様と柴忠さんの大きな笑い声が聞こえて来ましたので、私も急に悲しくなりましてお母様と抱き合って泣いたことを記憶《おぼ》えております。
 それから何日か経ちますと東京から大きなお菓子の箱みたようなものが、お母様のお名前で送って来ましたから、お父様が釘抜きと金槌で開いて御覧になるとどうでしょう。その中には錦絵が一パイに詰まっているのでは御座いませんか。
「まあ……これ……みんな絵ばかり……」
 と仰有って真青になったまま口紅の処を押えておいでになるお母様の小指がワナワナとふるえていたのを私はハッキリとおぼえております。
 その錦絵の美しかったこと……そうしてその紙と絵の具の匂いの何ともいえずなつかしう御座いましたこと……ちょうど夏になり口で十畳のお座敷のお縁が一パイに明け放してありましたが散り拡がった錦絵の色と香《にお》いで、そこいら中が明るくなったように思いました。まずお父様が御覧になった絵を私が見てお母様にお渡しするのでしたが、三人共申し合わせたように溜め息をしては褒め、ほめては溜め息をしておりますうちに、ついお昼の御飯をいただくのを忘れてしまった位でした。
 その中には関羽、張飛、玄徳の三枚続きの絵が二三通りありましたが、みんなお母様のお持ちのと違って絵の具が眼の醒《さ》めるように美しくて、金や銀の色がピカピカ光っておりました。これをお母様がお作りになったらどんなにか綺麗だろうと思っておりましたが、お母様は案外にも、そんな絵の中から八犬伝の中で犬塚信乃と犬飼現八と捕方三人を描いた五枚続きのをお選《え》り出しになりました。
「私はこれを作って見とう御座います。そうしてこの屋根の瓦と、現八の前垂れを本物のようにして見とう御座います」
 とお父様に御相談をなさいました。
 お父様もその時に一寸《ちょっと》案外という顔をなすったようですが、
「ウン。それもよかろう。どれ見せろ」
 と仰有って信乃と現八の顔をウットリと見ておいでになりました。
 けれどもその信乃の顔を横からのぞき込みました時の私の驚きはどんなで御座いましたろう。
 その顔のすぐ横にある赤い小さな短冊の中には中村|珊玉《さんぎょく》という四文字が書いてありましたので、あなたのお父様が御改名をなすったことを存じませぬ私は、別の人かしらんとチョット思ったので御座いました。けれども、それでもあの阿古屋の顔を左向きにして、男らしい長い眉をつけただけで、ソックリそのまま信乃の顔になることが子供心にすぐとわかりました。それと一緒に、お母様がその錦絵をお選《えら》みになったホントのお心持ちが初めてわかったような……けれどもまた、あからさまにはわからぬような……不思議なような恐ろしいような……そうしてそのわけを打ち明けて、お母様にお尋ねする事も出来ないような息苦しい気もちに打たれて、私の小さな胸がどんなにワクワクと致しましたことでしょう。けれどもその時の私には、そんなにまで深く自分の気もちを考えてみるような力はありませんでした。ただ何かしら悪い事をしたのを隠しているような怖い怖い気持ちになって、お父様とお母様の顔を見上げる事も出来ないままに、お煙草盆の頭を傾けながら一心に、信乃と現八の顔を見比べていたように思います。
 もっともその時にもお父様は、何もお気付きにならなかったようでしたが、おおかたそれは、あなたのお父様のお名前がかわっていたせいで御座いましたろう。
「この瓦をどうして本物の通りにするか」
 なぞとニコニコして、お母様に尋ねておいでになったように思います。
 お母様はその日からその五枚続きの絵を雁皮紙《がんぴし》に写し取って、合わせ紙に貼り付けたり切り抜いたりして、お仕事にかかられまして五日目には立派に仕上ったのを楠《くすのき》の一枚板に貼り付けておしまいになりました。
 その楠の板は木目が雲のようになっておりまして、その上に芳流閣の金の鯱鉾《しゃちほこ》と青い瓦とが本物のように切りつけられておりました。その金の鯱の前に片膝をついて刀を振り上げている信乃の顔は、お母様が私の眼や鼻をソックリ男のようにお描《か》きになりましたもので、それに向い合って身構えている現八の顔にはお父様の眼と鼻が生き生きと睨みかえっておりました。わけてもその現八の前垂れの美しかったこと……それはスッカリ本物の通りの刺繍をお入れになったので……こればかりで一寸四方いくらの値打ちがある。櫛田神社の絵馬堂に上げても盗まれぬように工夫せねば……と見に来た柴忠さんが云っておられたそうです。
 その押絵は、その春の末、博多で名高い山笠のお祭りのある前に櫛田神社の絵馬堂にあがりました。その額はやはり柴忠さんの工夫で厚い硝子張りの箱に封じた上から唐金《からかね》の網に入れて、絵馬堂の東の正面に、阿古屋の琴責めの人形と並んで上がったのですが、檜の香気《かおり》のために、何もかも真白になる程色が落ちている阿古屋の人形と見比べますと、ホントに眼が醒めるようで、一時は絵馬堂が人で一パイになるくらい評判が立ったそうで御座います。
 するとその評判をお聞きになったものかどうか存じませぬが、お父様は、忘れもしませぬ明治二十四年の五月二十四日のお昼前に、
「俺はちょっとその見物人を見て来る」
 と仰有って新しい飛白《かすり》の着物にいつもの小倉《こくら》の角帯《かくおび》を締めてお出かけになりました。
 その日は太陽がカンカン照っておりましたが、お父様は、
「雨になるかも知れぬ」
 と云って大きな白ケンチウ張りの洋傘《こうもり》を持って、竹細工の山高帽を冠って、中足高《ちゅうあしだか》をお穿《は》きになりました。私も行きたいと思いましたがお父様が、
「人が大勢居ると危ないから又連れて行ってやる。土産を買《こ》うて来てやるから待っとれ」
 と云い棄てて川端を水車橋の方へお出でになりました。そのニコニコと歩いてお出でになった横顔を私は今でも眼の前に思い浮か
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