のお琴のお師匠さんの処までよく聞えたそうです。
又、その頃の私の家《うち》の暮し向きは、僅かばかり来る作米と漢学のお礼のほかはお母様の押し絵や針仕事で立てておられましたので、私が生れますあと先は御両親とも随分お辛い事が多かったろうと思いますが、そんな意味の事も、この手鞠歌に唱《うた》い込んでありますようで、誰が作ったものか存じませぬが、ほんとに憎らしくて憎らしくて思い出す度《たび》に胸が一パイになります。
けれどもそのせいかして、お母様は鳥目になるといっておセキ婆さんが止めるのも聞かずに、普通の人よりも早く髪を洗ったり、針仕事を始めたりなすったそうです。お父様も亦《また》それから後《のち》というものは人が笑うのも構わずに、朝夕のお買物までも御自分でお出ましになりましたそうで、お母様は家《うち》にジッとしてお仕事をしておいでになりさえすれば、お父様の御機嫌がよいので、お祖母様は大層お困りになったそうです。
しかし、今になってよく考えてみますと、そうしたお父様のお心持ちが私にはよくわかるように思います。
親の事をとやかく申しますのは心苦しい事で御座いますけれども、この事はハッキリと申上げておきませぬと、これからの先のお話が、おわかりにならぬと思いますから、包まずに認《したた》めますが、私のお父様はそうした美しいお母様を一生懸命に働らかせて、お金をお貯めになる楽しみと、お母様を可愛がって、大切になさるお心持ちとを穿《は》きちがえたようなお心持ちから、そんな風にしておいでになることが、物心ついてから後《のち》の私の眼にも、よくわかっていたように思います。ですからお父様は、お母様が家《うち》に居て、夜《よ》の眼も寝ずにお働らきになる姿を御覧になるのが何よりも楽しく、嬉しくおいでになるのでそのために御機嫌もよかったものと思います。
とは申せ、又一方から考えますと私のお母様のお仕事好きが、その頃はもう普通の意味のお仕事好きを通り越していたことも否《いな》まれないと思います。たといお父様の無慈悲な嫉妬深いお心が、お母様をどんなにか無理に押えつけて働らかせておりましたにしても、亦お母様が、どのようにお仕事好きでおいでになったにしましても、私が生れた後《のち》のお母様のお仕事ぶりは、とても人間|業《わざ》ではないと人々が申しておりましたそうです。
この事は只今私から考えてみますと、そうしたお母様のお心持ちがよくわかるように思いますので、つまりを申しますとお母様のお心は、私をお生みになりましてからというもの人間世界をお離れになって、唯《ただ》、お仕事の一つに注ぎ込んで、ほかの事(それが何でありましたかという事は誰にわからなかったろうと思いますが)を忘れよう忘れようとしておいでになったのではないかと思われるので御座います。
何を申しましても私が生れましたのが阿古屋の琴責めの人形が出来ました年の新《しん》の師走《しわす》も押し詰まった日で御座いましたのに、それから一箇月半ほど経った新の二月の中旬を過ぎますと、もう家《うち》の事はもとより、旧正月の仕事として外《ほか》から頼んで来る裁縫や袱紗《ふくさ》の刺繍、縫紋《ぬいもん》、こまこました押絵の人形など、どんなにお忙がしくともお断りにならなかったそうです。これは私が物心ついてから後《のち》も同じ事で、羽織、袴、婚礼の晴着と急ぎの頼みを、夜《よ》の眼も寝ずにお作りになるほかに、お父様の漢学のお稽古のあとで、近いあたりの娘さんが十人ばかりもお稽古に来られます。それを教えながらお母様は家内四人(お祖母様のも)の着物まで縫われますので、そのまめなことと熱心なことは、子供心にも感心する位で御座いました。夏の暑い夜、蚊に責められてもお構いにならず、冬の寒い日に手足をお温めになる暇もない位セッセとお仕事を励まれました。
その頃町つづきの博多福岡では大変に押絵が流行致しましたので、町の大家なぞは、女の児《こ》が生れますと初のお節句にはみんな柴忠さんのように、お芝居の小さな舞台を作りまして、その中に押絵の人形を立てますので、三人組なれば三円、五人組なれば五円と、向うから高価《たか》い値段をきめて頼みに来ました。お母様は、そんなにお金をかけては出来がわるいと云われましても、先方で聞き入れません。それにお父様が「出来るだけの加勢は俺がしてやる」なぞと仰言って、断るのをお好きになりませんでしたので、お母様は泣く泣く引き受けておられました。その頃はお米が一|升《しょう》十銭より下で御座いましたろうか。
「米が十銭すれあサッコラサノサ」
という歌が流行《はや》っておりました位で御座いますが、そんなお金の事などは一切お父様がなすって、きょうはいくら、明日《あす》はいくらと駅逓《えきてい》局(その頃はもう郵便局と云っておりましたが、お父様は矢張りこんな風に昔の名前を云っておられました)にお預けになるので、お母様はほんとうにお仕事の地獄に落ちておいでになるようで御座いました。
けれども、それでもお母様のお仕事は、ほかの処のより念が入っておりました。
頭の毛は極く安いものでないかぎり黒繻子の糸をほごして一本一本に植えて、小さな指先まで綿をくくめて爪を植えて、着物もそれぞれの恰好にふくら味を持たせた上に、色々の模様を切りつけたものですが、その模様も一つ一つ織り目が合わせてありますために織り出したもののように手際よく見えるのでした。お正月の羽子板も大きなのになりますと板ばかりでなく、張り抜きにした上の方を刳《く》り抜いて、戸障子や手水《ちょうず》鉢、石燈籠、植え込みなぞいう舞台の仕掛けものや、書き割りなどの模様を提灯《ちょうちん》の絵描きに頼むのですが、お母様はそれを御自分の押絵に合うように、お縁側に持ち出して、いろいろな胡粉《ごふん》で塗ったり乾かしたりしてお描《か》きになりました。それから押絵の下絵は、お母様が錦絵を二十枚ばかり持っておいでになるのと、お弟子から借りてお写しになった沢山の下書きの中から生れて来るのでしたが、優しいのや厳《いか》めしいのが見ているうちに出来てくるその面白さ……。又は大きな大きな袱紗に、金や銀や五色の糸で縫い込まれた奇妙な形の花や蝶々が、だんだんと一つにつながり合った模様になって行くその美しさ……お父様は、そのようなお母様のお仕事を、丸い桐胴《きりどう》の火鉢の向うから私と一緒に御覧になるのが何よりのお楽しみのように見えました。時々は押絵の足につける竹などを削って御加勢なさるそのお優しさ。
私はまたおとなしい方で御座いましたのか、あまり泣いたりなぞしたおぼえはありませぬようで、六つか七つにもなりますと、お母様から小切《こぎれ》を頂いて頭の丸いお人形を作ったり、お母様が美濃紙《みのがみ》にお写しになった下絵をくり返しくり返し見たりして余念もなく遊ぶのでした。その中《うち》でも、お母様の押絵のお仕事を見るのが何よりの楽しみで、お父様が畠のお仕事をなされながら、お母様をお呼びになるのが恨めしい位に思われました。
ことに又、その中でも、お母様が押絵の人形の眼鼻口《めんもく》をお描きになる時にはきっと私を呼んで御自分の前に坐らせて、「右を向いて御覧」とか「左を向いて御覧」とか仰有って私の眼や、鼻や、口もとをシゲシゲと御覧になっては細長い筆の穂先を嘗《な》めて、火鉢のふちに幾つも並べてある人形の顔に書き入れておいでになるのでした。その顔はいろいろで、私に似ているのは一つもある筈は御座いませんでしたが、それでも毎日毎日見ておりますうちに、私は子供心にその中から自分に似た眼や鼻や口をやすやすと選《え》りだすことが出来るようになりました。それである時、お父様が畠へお出でになったあとで、
「これはあたしの眼よ。この口も……この鼻も、眉毛も……」
と申しますとお母様は、
「よくわかるね。お前の顔は役者のように綺麗だから、お手本にしているのだよ」
とおっしゃって、お笑いになりましたが、そのあとでお母様は急にうつむいて悲しそうな顔になられますと、涙をポトポトと火鉢の灰の中へお落しになりましたので、私も何だか悲しくなりまして、その後は一度もそんな事を申しませんでした。ハッキリとは、おぼえませぬが、お母様の鏡台を御自分の前にお据えになって、御自分の顔を御覧になったり、私の顔をお覗きになったりして、私の眼鼻立ちと御自分のとを一緒にして押絵のメンモクになすったのは、それから後《のち》の事だったように思います。
こうしたお母様はお正月のお人形をお済ましになりますと、もうそろそろ三月三日のお節句の人形にお取りかかりになるのでした。
博多の店に二三軒中等物の約束があり、又田舎からも極安《ごくやす》ものを二百でも三百でも出来るだけドッサリ頼んで参ります。又二月になりますと、上物《じょうもの》を好み好みにわけて店から頼んで参りますので、二月も末になりますと、お母様のお忙がしさは眼に余るようで、徹夜をなさる事も珍らしくありませんでしたので、私はいつの間にかお父様のふところに抱かれて寝ている事が多いのでした。
三月になって、やっと安心してお母様に抱かれることが出来ると思います間もなく、梅雨の間に機織《はたお》り、夜具の洗濯、一年中の晴れ着の始末をなさるのですが、その間にも裁縫や刺繍を頼んで参りました。そうして六月に入るとポツポツ八月のお節句の人形に取りかかられます。福岡の習慣として三月過ぎに生まれた女の子は八月に祝うのですけれど、何となくハズミがつきませぬので、お母様はさほどお忙がしくなかったようです。
八月になりますと、もうお正月の押絵の用意ですが、その頃は今のようにボール紙がありませんので、お母様が屑屋《くずや》に頼んで反古紙《ほごがみ》を沢山に買って合わせ紙というのをお作りになるのでしたが、それが又大変で、秋日のさすお庭から畠から、お縁側まで一パイに干してあることがよくありました。そんな時にお父様は、その頃まであった緡《さし》につないだお金をお座敷に並べたり、又緡につなぎ直したりなさりながら、
「せめてその加勢でも俺に出来るとナア」
とよく云われました。お父様の手は畠仕事で荒れておりますので、糊《のり》の付いた紙をお扱いになるとじきに引っかかったり、まつわり付いたりして、お母様がお一人でなさるよりも却《かえ》って手間取るのでした。
私もお母様のお忙がしさを見るにつけて、お手伝いをして差し上げたいのは山々でしたが、どうしたわけか同じ指を持ちながら、お母様のような縫い針やお洗濯が一つも出来ず、ただ、字を書く事と、お琴を弾くことが人並外れて好きなだけでした。そうして毎日川向うの賑やかな川端筋にあるお琴の先生の処へ学校の帰りにお稽古に寄るのでしたが、そのお復習《さらい》をうちへ帰って、お父様とお母様の前でするのが又、何よりも楽しみで御座いました。お二人とも私を喰べてしまいたいほど可愛がっておいでになりましたので、私が弾くたんびにお褒《ほ》めになっては、いろいろなお菓子を御褒美に下さるのでした。
「コヤツ(福岡の人は吾が児のことをよくこんなに申します)は俺のお祖母様の血すじを引いとるらしい。今にあの阿古屋のように琴が上手になるじゃろう。弾く手つきまでがあの押絵の通りじゃ」
とお父様がよく仰有いました。
けれども不思議なことに、お父様のそのような事を仰有るたんびに、お母様は、はかばかしく御返事をなさいませんでした。只「エエ」とか「ハア」とか弱々しい返事をなすって、あの淋しいような悲しいような微笑をなされながら、針や絵筆を動かしておいでになるのでした。時々は眼の中に涙を溜めておいでになる事さえありました。
けれどもお父様はそんな事を一度もお気付きになりませんでしたようです。ただ私だけがとっくに気が付いておりまして、子供心にいつかはお母様にお尋ねしてみようみようと思いながらツイそのままになってしまいました。
そのうちに私は十二歳の春を迎えました。お父様が三十八で、お母様が二十九におなりになりましたが
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