そうで、それでもお母様はお遠慮をなすったのを、お迎えに来た柴忠さんから無理にすすめられて、あと三日ほど御覧になったそうです。そうして五日目を御覧になった時にザッと下絵を描《か》いて、六日目に今一度芝居を見て細かい処をお直しになってから、お仕事にかかられましたが、それから一週間目にはもう阿古屋の琴責めの五人組の人形が立派に出来上りましたそうです。その押絵人形は、阿古屋の髪の毛を一本一本に黒繻子《くろじゅす》をほごして植えてあるばかりでなく、眼の球《たま》にはお母様の工夫で膠《にかわ》を塗って光るようにし、緋縮緬《ひぢりめん》の着物に、白と絞りの牡丹を少しばかり浮かし、その上に飛ぶ金銀の蝶々を花簪《かんざし》に使う針金で浮かしてヒラヒラと動くようにして帯の唐草模様を絵刳《えく》り込《こ》みにした、錦絵とも舞台面ともまるで違った眼も眩《まば》ゆい美しさの中に、阿古屋の似顔が、さながら生き生きとさしうつむいているのでした。それを、瓢楽座で日延べの二の替りを打っておいでになりました貴方のお父様が御覧になりました時、
「これは驚いた。自分が一番苦心をしている、昔の遊女の身体《からだ》のこなしを、どうしてこんなに細かく見て取られたものであろう。この遊女の姿態《こなし》ばかりは現在居る一番の錦絵描きでも描けないので、私の家《うち》の芸の中でも一番むずかしい秘密の伝授になっているものを……あの奥さんは不思議な人だ」
と云って舌を捲かれたという事で、今でも博多の人の噂に残っているそうで御座います。
その阿古屋の琴責めの五人組の人形が、柴忠さんの家《うち》の小さな本檜《ほんひのき》舞台に飾られました時の見物といったら、それは大変だったそうで御座います。申すまでもなくその時はお父様も、お母様も柴忠さんの処へおよばれになって、大層な御馳走が出ましたそうですが、その押絵を見るために態々《わざわざ》遠方から見えた御親戚や、お知り合いのお節句客の応対だけでも柴忠さんは眼がまわるほど、お忙がしかったそうで御座います。そうしてそんなお客が、お節句を過ぎてまでも、なかなか絶えそうに見えませんでしたので、しまいには柴忠さんも笑いながら、こんな事を云い出されたそうです。
「これはたまらぬ、いくら娘の祝いだというても、こんなに京大阪の旅人《たびにん》まで聞き伝えて見に来るようでは、今に身代限りになりそうだ。こんなに高価《たか》く付いた押絵があるものじゃない。何にしてもこれは井ノ口の奥さんが一世一代の精魂を打ち込まれた物だから、いっその事、娘の名前で氏神様に上げてしまった方がよかろう」
という事になりました。それでその押絵を立派なビイドロ張りの額縁《がくぶち》に納めて、その上から今一つ金網で包んだ丈夫なものにして、櫛田神社の絵馬堂に上げられました。その額ぶちの中にはやはり本檜の指物細工《さしものざいく》で舞台が浮き出させてありまして、建具までも本物の通り手数をかけた雛形が使ってありましたので、その重かった事、四人とか五人とかで小半日かかって、やっと釣り上げる事が出来たそうで御座います。
そのようなことで、お母様の評判が前にも倍して高くなりまして、それにつれて頼んで来るお仕事が又、前の倍ももっと上も来るようになりました事も申すまでもありませぬ。けれども、お母様はそれから間もなく、その年の暮近くに私をお生みになる事がおわかりになりましたために、八月から後《のち》に来た注文はピタピタと断っておしまいになったそうです。
私が生れます前後のお祖母様や御両親たちのお騒ぎになりようというものは、はたから見ていると、とても可笑《おか》しくてたまらぬ位だったそうで御座います。
「美人は子を生まず」とか「気嵩《きかさ》の女には子種がすくない」とかよく云うようで御座いますが、私のお母様は両方を兼ねておいでになりましたので、お祖母様もこの事ばかりを御心配なすってよくそんな愚痴を仰言ったそうです。もっともお父様はそんな事に就いては黙っておいでになりましたそうですが「三年子なければ去る」という慣《なら》わしが福岡にもありましたのに、かんじんのお母様がお家付きで、お父様の方が御養子でおいでになるので、お祖母様は、どうなさる事も出来なかったのでしょう。
それでもお祖母様は、どんなにか初孫《ういまご》の顔を御覧になりたくておいでになったでしょう。
お祖母様は、ですから時々御自分から進んでお母様をお連れになっては、お地蔵様だの、観音様だの、御神木なぞを拝みにお出でになったり、御符《ごふ》や御神水《ごしんすい》なぞを取り寄せて、お母様にお戴かせになったり、色々とお苦心をなすったそうです。「お前、きょうは観音様の日だよ」とか「明日《あした》はお地蔵様の何々だよ」とか仰言っては、月に二三度ずつお母様をお出しになったそうですが、その時はお母様もどんなにお仕事がお忙がしくとも「ハイ」と云ってお出かけになりましたそうです。お父様も朝晩神様や仏様に手をお合わせになるほかに、お祖母様がおすすめになる御符や神水なぞも、すなおにおいただきになりましたそうで、決して迷信なぞとは仰言らなかったそうです。
そんなにして家中《うちじゅう》が子供を欲しがっておいでになりましたところへ、私というものが出来ましたのですから、そのお喜びはどんなだったでしょう。
今まで黙っておいでになりましたお父様は、いよいよその年の八月に六月目の岩田帯《いわたおび》をお母様がなさるようになりますと、胎教というのをお初めになりましたそうです。それについては、どのような故事がありましたものか、よく存じませぬけれども、やはり漢学の方で支那から伝わった事で御座いましょう。今までお父様とお座敷にお寝《やす》みになったお母様を、お台所の広い板の間の横に在るお茶の間に、たった一人でお寝ませになって、お父様だけがお座敷にお残りになり、又、お祖母様はお玄関の横の御自分の室《へや》に、今までの通りにお寝みになるのでした。そうして、そのお母様がお寝みになるお茶の間の四方には、歴史で名高い人や、勇ましい出来事の絵なぞを一ぱいに貼りつけたり、額にして架《か》けたりしてありますので、そんな絵や字なぞを、お母様が朝晩に見ておいでになりますと、お腹に居る子供が、そうしたお母様の気持ちから感化を受けまして立派な子供になりますのだそうで、それが胎教というのだそうで御座います。そんな絵や字は、私が大きくなりまして後《のち》も、煤《すす》けたままお茶の間の四方に並んでおりましたので、楠正成の討死とか、白虎隊の少年の切腹とか、上野の彰義隊の戦争とか、日本武尊《やまとたけるのみこと》が熊襲《くまそ》を退治していられるところとかいうような、勇ましい中にも、むごたらしいような石版絵が、西郷様の肖像とか高山彦九郎の書いた忠の字とかいうものと一緒に並んでいるのでしたが、そんな絵や字を見まわしておりますと、お父様は私を、まだ生れないうちから男の児《こ》ときめておいでになったらしいことが、よくわかるので御座いました。
それから、いよいよ私が生れる時が近づきますと、前に申しましたオセキ婆さんが泊り込みでお台所の板の間に床を取って寝ました。この婆さんは、私が五つか六つの頃まで生きておりましたが、大変に元気者の慾張り婆さんで、お父様はあまりお好きにならなかったそうですが、十人近くも子供を生んだ経験がありましたので、この時ばかりはお父様は何も仰言らずにお母様の介抱をお許しになったそうです。今でもよくおぼえております。眼の玉のギョロギョロする、肥った色の黒い女で、お母様のお話が出るたんびに、
「私が育てたんじゃもの……ナア御隠居さん」
と云っては大きな口を開いて男のように笑うのでしたが、その頃の婆さんには珍らしくオハグロをつけていなかった事をよくおぼえています。人の噂によりますと柳町(遊廓)に奉公をしていたこともあるそうですが、その婆さんがやって来まして、お母様のお腹を一ト目見ますと、
「これは大きい。よっぽど大きな男のお子さんに違いない。日数《ひかず》もいくらか延びてお生れになるでしょう」
と申しましたので、お父様は大変にお喜びになったそうです。けれどもこの婆さんの予言は当りませんで、生れた私は普通の大きさの女の子でした。只日数が一週間ばかり延びただけでしたそうですが、それでもお祖母様や、お父様は不平にお思いになるどころか、オセキ婆さんに手を合わせて、
「ああ。お蔭で安堵した」
と仰有《おっしゃ》って涙をお流しになった位だそうです。
私が生れましたのは明治十三年の十二月の二十九日で、大変に雪の降る朝だったそうですが、ちょうどお祖母様もお父様も、もう生れるか生れるかというような御心配のために疲れ切っておいでになりましたので「いよいよ生れる時まで待っておいでなさい」とオセキ婆さんが申しますままに、お座敷のお炬燵《こたつ》に当りながらウトウトしておいでになる間に生れたのだそうで、夜が明けてから子供の泣き声をお聞《きき》になるとお二人ともビックリなすったそうです。けれどもオセキ婆さんは気の強い女で、急いで私を見にお出でになったお父様を、
「アッチへお出でなさい。今抱かして上げます。殿方は産所へお這入りになるものではありません」
と叱りつけましたので、お父様は又慌ててお炬燵へお這入りになって、頭から蒲団をお冠《かぶ》りになりました。そのために炬燵の櫓《やぐら》が半分丸出しになって、その左右に、お父様の黒いおみ足がニュッと二本つき出ておりましたそうで、
「その御ようすの可笑《おか》しかったこと……」
とオセキ婆さんがよく人に話しては笑ったという事を、ずっと後《あと》になって、聞きました。
私が生れましたあと先の事で、後《のち》になって聞きましたことはまだいろいろあります。
その中《うち》でも何より先に申上げなければなりませぬ事は、私が生れましてから間もなく流行《はや》り出しました手鞠歌《てまりうた》で、今でも福岡の子守女は唄っているそうで御座います。
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「イッチョはじまり一キリカンジョ……
一本棒で暮すは大塚どんよ。(杖術《じょうじゅつ》の先生のこと)
二ョーボで暮すは井ノ口どんよ。
三宝で暮すが長沢どんよ。(櫛田神社の神主様のこと)
四わんぼうで暮すが寺倉(金貸)どんよ。
五めんなされよアラ六《む》ずかしや。
七ツなんでも焼きもち焼いて。
九めん十めんなさらばなされ。
眼ひき袖引きゃ妾《わたし》のままよ。
孩児《やや》が出来ても妾の腹よ。
あなたのお腹《なか》は借りまいものよ。
主《ぬし》は誰ともおしゃらばおしゃれ。
生んだその子にシルシはないが。
思うたお方にチョット生きうつし。
あらイッコイッコ上がった」
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と申しますのですが、私が、このようなことを申しますのは如何かと存じますけれども、これはやはりお父様とお母様と、それから私のことを目当てにして当てこすったもので、お母様が帯を縫ってお遣りになった力士の名前や、押絵にお作りになった、あなたのお父様の事などを輪に輪をかけて噂したものでしょう。私のお父様は前にも申しますように色の黒い逞ましいお方で、どちらかと申せば醜男《ぶおとこ》でおいでになったのに、お母様の方はまるでウラハラで、世にも珍らしく美しい方でしたので、いろいろな事を人が申しましたのも無理はないと思われます。
お父様は、そんな歌が流行《はや》り出してからというもの、毎日のお墓参りや、方々の神様や仏様への安産の御願《おがん》ほどきや、お礼参りのほかは、お母様を一歩も外へお出しにならなかったそうです。
もっとも、お父様は平生から冗談口一つ仰有らぬ真面目なお方でしたから、このような歌のウラに隠してある本当の意味はおわかりにならなかったでしょう。只、御自分の事が云ってあるので、お気に障《さわ》ったものらしく、そんな歌を意地悪るく家《うち》の表に来て歌う子守女たちを、お父様がキチガイのようになって、お叱りになる声が川向う
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