それは熱のためばかりではないように存じます。おおかた私の生命《いのち》が、もう残りすくなになっているせいで御座いましょう……とそう思いますと貴方様のお顔が一入《ひとしお》おなつかしく、又は悲しく思い出されまして胸が一パイになるので御座います。
私の生家は福岡市の真中を流れて、博多湾に注いでおります那珂川《なかがわ》の口の三角洲の上にありました。
その三角洲は東中洲《ひがしなかす》と申しまして、博多織で名高い博多の町と、黒田様の御城下になっております福岡の町との間に挟まれておりますので、両方の町から幾つもの橋が架《か》かっておりますが、その博多側の一番南の端にかかっております水車橋《みずぐるまばし》の袂の飢人地蔵《うえにんじぞう》様という名高いお地蔵様の横にありますのが私の生家で御座いました。その家《うち》は只今でも昔の形のままの杉の垣根に囲まれて、十七銀行のテニスコートの横に地蔵様と並んでおりますから、どなたでもお出《い》でになればすぐにわかります。
尤《もっと》も今から二十年ほど前に私たちが居りました頃の東中洲は、只今のように繁華な処でなく、ずっと西北の海岸|際《ぎわ》と、南の端の川が二つに別れている近くに一並び宛《ずつ》しか家がありませんでしたので、私たちの家だけは、いつもその中間の博多側の川ぶちに、菜種《なたね》の花や、カボチャの花や、青い麦なぞに取り囲まれた一軒家になっておりましたことを、古いお方は御存じで御座いましょう。
私の家は黒田藩のお馬廻《うままわ》り五百石の家柄で、お父様は御養子でしたが、昔|気質《かたぎ》の頑固一徹とよく物の本やお話にあります。あの通りのお方で、近まわりの若い人たちに漢学を教えておいでになりました。それに生れつきお酒がお嫌いで、大の甘党でおいでになりましたので、私が十歳にもなりました時は、よほど胃のお工合がわるく、保養のためといってよく畑いじりをしておいでになりましたが、そのせいかお顔の色が大変黒くて、眉毛の太い、お眼の切れ目の深い、お口の大きい、武士らしい怖い顔のお方で御座いました。
それに引きかえて私のお母様は世にも美しい、そうして不思議なお方でした。
私のお母様は、只、生きるためにしか、お食事をなされぬように見えました。よくまああれでお身体《からだ》が保《も》つものと、子供心にも思わせられました位小食でした。又お母様は、
「あの一軒屋に居りながら、いつの間に見て御座るのか」
と知り合いの人が感心しておりましたくらい髪なぞもチャンと流行風《はやりふう》に結《ゆ》って、白いものなぞをチョッとかけておられましたが、それが又、飾り気がないままに譬《たと》えようもなく美しく見えました。そのお母様を育てました乳母で、オセキという元気な婆さんは、そのころ大きな段々重ねの桐の箱を背負うて、田舎まわりの小間物屋をしておりましたが、お母様はその婆さんから折々油や元結《もとゆい》なぞをお買いになるほかは何一つ贅沢なものを手にお取りになるでもなく、却《かえ》ってそのオセキ婆さんの方が、お母様のお作りになった絞りの横掛けや、金襴《きんらん》のお守り袋なぞを頂いて田舎で売って儲《もう》けていたとの事でした。夏なぞは御自分でお染めになった紺絞りの単衣《ひとえ》を着ておられるのが、ツキヌクほど白いお顔の色や、襟足や、お身体の色とうつり合ってホントにお上品に見えました。ある時私に、おまんじゅうを焼いて上げようと仰言《おっしゃ》って、手拭をチョット姉さん冠りにして火鉢の前にお坐りになった、そのお姿のよかったこと、今に眼についております。
「あなたのお母様は絵のようだと申し上げたいが、絵よりもズウットズウットお美しい」
とある人は申しました。
「女でさえ惚れ惚れする」
と云って昆布売りの女が見かえり見かえり出て行ったこともあります。嘘か本当か存じませぬが、その頃の福岡の流行《はや》り歌に、
「みなさんみなさん、福岡博多で、釣り合いとれぬが何じゃいナ。トコトンヤレトンヤレナ。あれは井《い》ノ口《ぐち》旦那と奥さん。中洲に(泣かずに)仲よく、暮すが不思議じゃないかいな。トコトンヤレトンヤレナア」
というのがあったと誰からか聞いておぼえておりますが、教えた人は忘れてしまいました。
けれどもお母様のホントの不思議と申しますのは、そんな事ではありませんでした。
「あなたのお母様は、私と同じ指を持っておいでになるのに、どうしてあのように不思議なお仕事が、お出来になるのでしょう」
というのは、うちに来られる人のみんなが皆言う事でした。私のお母様は、そんなにまで人が不思議がる程、指先のお仕事がお上手なのでした。
私が八歳の冬まで生きておいでになりましたお祖母《ばあ》様や、オセキ婆さんや、人様のお話によりますと、お母様は井ノ口家のたった一粒種で御座いましたが、七歳の時に御自分の初のお節句にお貰いになった押絵の人形をこわして見て、それを又作り直してひとり手に押絵の作り方をお覚えになったのだそうです。それから後《のち》、お手習いが済みますと、人形の顔形や花もようなぞを鼻紙や草紙の端に描いて、いつまでもいつまでも遊んでおいでになりましたそうで、お友達なぞも先方から遊びに来られなければ、こちらからは進んでお出でになるようなことはありませんでした。そうして十歳位になられた時に、遊び事に作られた押絵の人形が評判になって売れて行きましたので、私のお祖父《じい》様やお祖母様がビックリなすったそうです。
お母様はそれから十一になられますと、博多の小山《おやま》という所の母方の御親戚に当るお婆さんの処へ行って、機織《はたおり》、裁《た》ち縫《ぬ》いなぞをお習いになりましたが、そのお婆さんが名高い八釜《やかま》し屋《や》のお師匠さんでしたのに、お母様ばかりは何も云われませんでしたそうで、十四歳の時には、もうお師匠様と変らぬ位にお出来になりました。刺繍なぞもその頃から遊びごとに作られたのが、大人《おとな》のそれよりも綺麗でシッカリしていたという事で御座います。
私のお父様が月川家から御養子にお出でになりましたのは、お母様の十五の年で、お父様のお年はたしか二十四歳でした。
それから、これはお母様の事ですが、お母様が御婚礼をなすったあくる年の十六のお正月に、お仕事のお師匠様の処へ御年始にお出でになりました節、御親戚の事とてお師匠様はお雑煮《ぞうに》を出すからと用意をされました。その時にある人が板のような厚い博多織の男帯を持って来まして、これは今|上方《かみがた》から博多に来ている力士の帯で、わざわざ博多へ注文して織らせて上方で仕立てさしたものだけれど、何だか結び目が工合が悪くて気に入らないから、又仕立て直さしたけれども矢張りいけない。博多織を扱いつけておられるこっちのお師匠さんよりほかに仕立て直して頂く処がなくなりましたから持って来ましたと申しました。するとお師匠さんのお婆さんが、それはよいところへ見えました。今ちょうど何でもお出来になる福岡一の美しい奥さんが見えているから、といってお母様に押しつけて仕舞われました。
お母様は怖い、意地の悪いお師匠様のお言葉を背きもならず、その上に私のお父様が何でも負ける事がお嫌いなのを、よく御存じでしたので、もし、お断りしてお雑煮も頂かずに逃げて帰ったことが、あとでわかっては大変とお思いになりまして、泣く泣くお引き受けになりましたが、何度も仕立て直したものなので、その縫いにくい苦しさと切なさ。涙が出たとのお話で御座いました。けれども、ともかくも、お雑煮が出来るまでに仕上げて、早速持たせてお遣りになりましたところが、大変にそれが気に入りましたらしく、すぐに沢山の仕立て代を持たせてよこしたのをお母様はキッパリとお断りになりましたそうです。そうしたらその角力《すもう》取りは、そのあくる日に沢山の縮緬《ちりめん》とか緞子《どんす》とかを台に載せて、自分で抱えて人力車に乗ってお母様の処へお礼に来ましたので、そんな訳を御存じないお父様は大層お驚きになりました。そうして御自分で玄関へ出て来て、
「うちの家内はお前達のような者に近づきは持たぬ」
と仰言ったのを、あとから出てお出でになったお母様がお引き止めになったので、やっと品物をお受け取りになりましたが、角力取りはお玄関で追い返されてしまいました。
「あれはお前を見に来たのに違いない。これから角力取のものなぞ縫うことはならんぞ」
と、お父様はあとで大層お母様をお叱りになったそうです。
それから今一つ、お母様が十八の年の二月に博多一番と云われております大金持ちの柴忠《しばちゅう》(本当は柴田忠兵衛)さんという人が自身でお父様に会いに来られまして、こんな事を云い出されました。
「今日お伺い致しましたのは、私の家《うち》の娘の初の節句に是非ともこちら様の奥様の押絵を飾らして頂きたいと存じまして、その事をお願いに参りましたので御座います。それにつきましては、もう四五日しますと東京の千両役者で中村|半太夫《はんだゆう》(あなた様のお父様で御座います。失礼な言葉づかいを何卒《なにとぞ》おゆるし下さいませ)というのが博多に参りまして瓢楽座《ひょうがくざ》で十日間芝居を致します。そのお目見得《めみえ》芝居の芸題は阿古屋の琴責めで、半太夫が阿古屋をつとめる事になっておりますから、その舞台を御覧になって、その通りの場面を五人組みに作って頂けますまいか。そのためには正面の一番よい桟敷《さじき》を初日から千秋楽まで買い切っておきますが、どうぞ充分に御覧下さいませ。下地の錦絵はここに持って参りました。この三枚続きですが芝居を御覧になりました上でどんなにお作りかえになりましても構いませぬ。又衣裳が御覧になりたければ楽屋へお出でになって手に取って御覧になっても構いませぬ。私が御案内を致します。まことに不躾《ぶしつけ》では御座いますが費用も手数も一切いといませぬから、どうぞ奥様の一世一代のおつもりで後《のち》の世に伝えるものを頂戴致しまして、私の娘にあやからせて頂きとう御座いますが、如何で御座いましょうか」
と、まごころ籠《こ》めてのお頼みでした。
しかし、厳格なお父様はなかなかお許しになりませんでしたそうです。阿古屋の琴責めという芝居は、どんな筋のものかとお尋ねになったり、楽屋は男でも這入って行けるものか、なぞといろいろお尋ねになりましたので、柴忠さんが説明をされまして、芝居というものは辻学問といって仁義道徳の教《おしえ》を籠めたものとか、役者は河原者というけれど東京の俳優はそうばかりではなく、よい役者になると礼儀の正しい立派な人間ばかりで、角力取りや何かとは格式の違うものとか、いろいろに言葉を尽しましたので、やっと、
「それでは見に行こう」
と仰言ったそうです。
それからお芝居が始まりますと、小間物売りのオセキ婆さんを呼んで留守番をさせて、お祖母様とお父様と、お母様と三人お揃いで三日の間瓢楽座へお出でになりましたが、その最初の日には中村半太夫という方が羽織袴を召して、お父様たちの御見物の席に見えて御挨拶をされました。そうして、
「私の舞台姿が福岡で名高い奥様のお手にかかるとは一生の誉《ほま》れで御座います。何とぞよろしく……」
と仰言って、お祖母様にはお茶器を、お父様にはお煙草盆を、又、お母様には紙入れを、それぞれお土産に下すったそうですが、それにはいずれも私の家《うち》の定紋《じょうもん》の輪ちがいの模様が金と銀とで入っておりましたので、お父様はビックリなすったそうです。そうして半太夫という方の御人品《ごじんぴん》に大そう感心をされまして「武士ならば千石取りじゃ」と人にお話しになりましたそうです。
けれども、それから四五日目になりますとお父様は、
「俺はもう頭が痛くなりそうじゃ。お母様も最早《もはや》お倦《あ》きになったそうじゃから、俺はお母様と二人で留守番をする。許すからお前はオセキ婆と二人で見て来い。柴忠の折角の頼みじゃから」
と仰言った
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