めることが出来ます。
お父様をお見送りしますと私は、お床の間に立てかけてあった琴を出して昨日《きのう》習いました「葵《あおい》の上《うえ》」の替《かえ》の手を弾きはじめました。お母様はお台所で髪《おぐし》を上げておいでになったようですが、私が「葵の上」を弾いて、「青柳《あおやぎ》」を弾いて、それから久しく弾かなかった「乱《みだれ》」を弾きますと指が疲れましたので、四角い爪をいじりながら西向きのお庭の泉水《せんすい》に咲いているお父様の御自慢の花菖蒲《はなしょうぶ》をボンヤリ見ておりましたが、今までカンカン照っていたお日様に雲がかかったかしてフッと暗くなりました。お台所の物音も止んでいたように思います。
その時に玄関の格子戸を荒々しく開く音がして誰か這入って来たようでした。私は何故ともなくハッとして立ちかけると間もなく、お父様がツカツカと這入ってお出でになりましたので私は又ビックリしまして、
「お帰り遊ばせ」
と手を支《つか》えました。このような事は今までに一度もありませんでしたので、いつもお帰りの時には玄関にお立ちになって、
「おお……今帰ったぞ」
とお母様をお呼びになるのでした。
お父様のその時のお顔はまるで病人か何ぞのように血の気がなくて幽霊のようにヒョロヒョロしておいでになったようです。そうして平生《いつも》のように私の頭を撫でようとなされずに、ドスンドスンと私の琴を跨《また》ぎ越して、お床の間に置いてある鹿の角の刀掛《かたなかけ》の処にお出でになって、そこに載せてある黒い長い刀の鞘《さや》を抜いてチョッと御覧になりました。
それを又元の処にお架《か》けになると、今度は怖い怖い、今思い出しても身体《からだ》の縮むような眼つきをしてジーッと私の顔を御覧になりましたが、やがて気味のわるい笑みをお浮かべになりながら、ふるえる私をお抱き上げになって、又お床の間の前に来てお坐りになりますと、やはり私の顔を見入っておいでになりました。口元が見る見るうちに、わななき歪《ゆが》んでその大きな眼から涙をポロポロとお落しになりました。
私は泣くには泣かれずに、唯、怖いような悲しいような思いで一パイになって、お父様の顔ばかり見ておりました。すると、お父様は何とお思いになりましたことか、突然に私を突き放しざま、私の左の頬を力一パイお打ちになりましたので、私は畳の上にひれ伏したまま、ワッと大きな声を立てて泣き出しました。私がお父様に打たれましたのは後にも先にも、これが初めてのお終《しま》いでした。
「まあ……あなた……何をなさいます」
という声が台所の方から聞えて、お母様が走ってお出でになる気はいが致しました。それで私は起き上ってお母様の方へ行こうとしましたが、いつの間にか私はお父様から帯際《おびぎわ》を捉えられておりまして、息が止まるほど強く畳の上に引き据えられました。その拍子に私は、あまりの恐ろしさのためから泣き止んでしまったように記憶《おぼ》えています。
お母様は結《ゆ》い上げたばかりの艶々《つやつや》しい丸髷《まるまげ》に薄化粧をして、御自分でお染めになった青い帷子《かたびら》を着ておいでになりました。そうして手を拭いておられた紙を左手の袂に入れながらお座敷の入り口で三ツ指をついて、
「お帰り遊ばせ……まあ……あなたは何故そのようなお手荒いことを……」
と云いながら私に近寄ろうとなさいますと、私の背後《うしろ》から、お父様のお声が大砲のようにきこえました。
「……黙れッ。……そこへ坐れッ」
お母様はビックリした顔をなされながら素直にお坐りになりました。そうして両手を支《つか》えながら、
「ハイ……」
と云い云い私の打たれた頬と、お父様のお顔とを見比べておいでになりました。けれどもまだ涙はお見せになりませんでした。
「もっとこっちへ寄れッ」
とお父様は押しつけるように云われました。
「ハイ……」
とお母様はしとやかにお進みになって、丁度十畳のお座敷のまん中近くまで来て又、三ツ指をおつきになりました。
お父様は黙ってお母様の顔を睨んでおいでになるようでしたが、私はお母様の方に向けられて足を投げ出したまま、帯際をしっかりと捉えられておりましたので見えませんでした。
お母様も一心に、お父様の顔を見ておいでになりましたが、その大きな美しい眼で二度ほどパチパチと瞬《まばたき》をされました。
「……キ……貴様は……ナ……中村半太夫と不義をした覚えがあろう」
というお父様の声が、間もなく私のうしろから雷のように響きました。私の帯を掴んでおられるお父様の手がブルブルとふるえました。
「あっ……まあ……」
とお母様は眼を大きくして驚きさま、うしろ手をつかれましたが、たちまち膝の前に両袖を重ねてワッと泣き伏しておしまいになりました。
お父様は黙ってその姿を見ておいでになる御様子でしたが、暫くして又今度は低い押しつけるような声で、静かに云われました。
「おぼえがあろうの……」
「エエッ……ぞんじがけもない……夢にも……マア」
とお母様は青白い顔と、紅くなった眼をお上げになりました。
「黙れっ」
とお父様のお声は又、雷のように私のうしろからはためきました。私の右の耳がジイーンと鳴る位でした。
「おぼえがないとて証拠があるぞッ」
お母様はそう云われるお父様のお顔をジッと御覧になりながら、飛白《かすり》の前垂れの上に両手をチャンと重ねて、無理に気を落ちつけようとしておられるようでしたが、その悩ましくも痛々しいお姿を私は死んでも忘れますまい。けれどもお母様のお声はいつもと違って、ふるえてカスレておりました。
「……ど……どのような……」
「黙れ黙れッ。どのようなとは白々《しらじら》しい……あの櫛田神社の犬塚信乃の押絵の顔は誰に似せて作ったッ」
お母様は長い長い溜め息をホーッとなされました。静かに私の顔を見ながら云われました。
「そのトシ子に肖《に》せて作りました」
「そのトシ子の……こやつの顔は誰に似ている」
と云うなり、お父様は両手で私のお煙草盆に結《ゆ》っている頭をガッシと掴んで、お母様の方へお向けになりました。
「エエッ……」
というお母様の声だけは聞こえましたが、私の左の眼に、お父様のどの指かが這入りまして、ビクビクと痛みましたので私は眼をあけることが出来なくなって、お父様の手を掴まえて藻掻《もが》いておりました。そのうちにお父様の声は、なおも続きました。
「俺は今日がきょうまで知らなんだ。けれども最前あの櫛田神社の額を見ながら、人の噂をきいているうちに、あの犬塚信乃の押絵の顔が、中村半太夫の舞台に生き写しであることがわかった。そればかりでない。貴様の作った人形の顔が上物《じょうもの》になればなる程、中村半太夫に似ていることも、そこに居った人の噂で初めて気が付いた。コヤツ(私)の眼鼻立ちが中村半太夫と瓜二つになっていることは近所の子守女まで知っていることもあの絵馬堂で初めてきいた。……この年月《としつき》貴様に子が生まれぬわけも今はじめてわかった。……キ……貴様は、よくもよくもこの永い間俺に恥をかかせおったナ」
こうした声が響き渡るうちにお父様は片方の手を私の頭から離されましたので、私はやっと眼を開《あ》くことが出来ました。
お母様は畳の上に両袖を重ねて突伏《つっぷ》しておられました。そうして声を押えて泣き続けておいでになりましたが、不思議と一言も云い訳をしようとはなさいませんでした。
私は、いつもお父様がカンシャクをお起しになった時のようにお母様はすぐにお詫びになることとばかり思っておりましたけれども、お母様はこの時ばかりはどうした訳《わけ》か只お泣きになるばかりで、しまいには、その声さえ包まずに心ゆくばかり泣いておいでになったようです。
その声をジッと聞いておいでになったらしいお父様は、やがて武士らしい威厳のある声でこう云われました。
「おれは覚悟した。貴様の返事一つでは、その場を立たせずにこの刀で成敗をしてくれる。先祖の位牌を汚した申訳にするつもりだ。サア、返事をせぬか」
と云いながらお父様は私の頭から手を放して、又帯際をお掴まえになりました。
その時にお母様はピッタリと泣き止んで静かに顔をお上げになりました。うつむいたまま紺飛白《こんがすり》の前垂れを静かに解いて、丁寧に畳んで横にお置きになって、それから鼻紙でお顔の乱れを直して、ほおけかかった髪を丸櫛で、掻き上げてから、やおら眼をあげてお父様を御覧になりましたが、その時のお母様の神々《こうごう》しかったこと……悲しみも、驚きも、何もかもなくなった、女神のような清浄なお方に見えました。
お母様はそれから両手をチャンと、畳の上に揃えながらジッとお父様のお顔を見上げながら云われました。
「申訳御座いません……お疑いは御尤《ごもっと》もで御座います」
と云ううちに新しい涙がキラキラと光って長い睫《まつげ》から白い頬に伝わり落ちましたが、お母様はそのまま言葉をお続けになりました。
「どうぞ、お心のままに遊ばしませ。私は不義を致しましたおぼえは……」
「何ッ……何ッ……」
「不義を致しましたおぼえは毛頭御座いませぬが……この上のお宮仕えはいたしかねます」
「……………」
「お名残り惜しうは御座いますが、あなたのお手にかかりまして……」
「何ッ……何じゃと……」
と云いつつお父様はグイグイと私を、おゆすぶりになりました。
お母様はハフリ落つる涙を鼻紙でお押えになりました。
「ただ、そのトシ子だけは、おゆるし下さいますように……。それは正《まさ》しくあなた様の……」
「何をッ……又してもぬけぬけと……」
「イイえ……こればっかりは正《まさ》しく……」
「エエッ……まだ云うかッ……」
「イエ……こればかりは……」
「黙れッ……ならぬッ」
とお父様が仰有る途端に私を、お突き放しになりましたので、私はバッタリと倒れて、お琴の上にひれ伏しました。それと一緒に琴柱《ことじ》が二つか三つたおれてパチンパチンと烈しい音がしたように思います。
私はこれから先の事を書くに忍びませぬ。
けれどもこれから先の事を書きませぬと、何もかも疑問のままになると思いますから、記憶《おぼ》えております通りに記し止めさして頂きます。
私がようやっと、お琴の上から起き直りました時には、畳の上に正座して、両手を膝の上に置いたまま、うなだれておいでになるお母様と、それに向い合って、突立っておいでになるお父様のお姿が、暗いお庭を背景にして見えましたが、その時にお父様は、右手に刀を提《さ》げておいでになった筈でしたけれども、その刀はお父様の身体《からだ》の蔭になって、私の目には這入りませんでした。只、お母様のうしろの壁に、赤い花びらのような滴《したた》りが、五ツ六ツ、バラバラと飛びかかっているのが見えましたが、その時は何やらわかりませんでした。
そのうちにお母様の白い襟すじから、赤いものがズーウと流れ出しました。……と思うと左の肩の青いお召物の下から、深紅のかたまりがムラムラと湧き出して、生きた虫のようにお乳の下へ這い拡がって行きました。お母様の左手にも赤いものが糸のように流れ出していたように思います。それと一緒に、その青いお召物の襟の処が三角に切れ離れて、パラリと垂れ落ちますと、血の網に包まれたような白いまん丸いお乳の片っ方が見えましたけれども、お母様は、うつ向いたままチャンと両手を膝の上に重ねて坐っておいでになりました。
私はその時に夢中になって、お母様に飛びついて行ったように思います。それをお母様はお抱き寄せになったようにも思いますがハッキリとは記憶致しませぬ。その時に、私の背中と胸へ、何か火のように熱いものが触ったように思いながら、お母様の上へ折り重なって倒れたようにも思いますが、これとても夢中になっておりましたのですから、どんな気もちだったかハッキリとは思い出し得ませぬ。どちらに致しましても私は、それ切り何もかもわからなくなりましたので、気がつきました時
前へ
次へ
全13ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング