あえず這入っておりました上野の仏和女学校の学科の難かしさと、それからもう一つ、生れて初めて岡沢先生に教えて頂いたピアノの面白さに夢中になってしまいまして一年ばかりは夢のように過ごしてしまいました。
そうして間もなく翌年の春になりますと、或るお夕飯時のことで御座いました。奥様のお酌で盃を重ねておられました岡沢先生が、思いもかけずこんな事を云い出されました。
「トシ子さんは、まだ歌舞伎座を見たことがなかったっけね」
私はその時に思わずハッとしまして、そう仰言った岡沢先生のお顔を見上げながら真赤になってしまいました。私の心の奥の奥に隠しております秘密を云い当てられたような気もちが致しますと一緒に岡沢先生が何かしらそんな事について御存じで、それとない御親切からこんなことを仰言るのではないかと思いまして……。
けれどもその横から何も御存じないらしい奥様が優しくお笑いになりました。
「マア。ホントニ。トシ子さんはもうすっかり東京通と思っていたら、大切《だいじ》の大切の歌舞伎座を落っことしていたわね。ホホホホ。何なら明日《あした》は日曜ですから連れてって下さいませんか。私もトシ子さんぐらい久し
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