が、正面の入口からソッとお這入りになりまして、電燈の下の壁にお倚《よ》りかかりになりました。
 そのお姿を楽譜の蔭からチラリと見ました時の私の胸の轟きは、どんなで御座いましたでしょう。その時にあなた様は急いでお出《い》でになりましたせいか、人に気づかれないように壁に身体《からだ》をお寄せになって色眼鏡を外《はず》して汗をお拭きになってから、ソッと私の方を御覧になりました。
 そのお顔をハッキリと眼には残しながら、死ぬかと思われるほどの不思議な驚きに打たれました私は、思わず気を失ってしまいまして、皆様に一方《ひとかた》ならぬ御心配をかけました。それのみか、思いもかけませず喀血を致しまして、明治音楽会に一つしか御座いませぬ大切なピアノを汚《よご》しましたために、折角《せっかく》の演奏会が中止になりましたとの事で、ホントにどうしてお申訳《もうしわけ》を致しましょうかと、思い出しては溜息を重ねているばかりで御座います。皆様は、それを私が予《か》ねてから職業に熱心のあまり忍び包んでおりました病気のためとばかり思し召して、私の身にとりまして堪えられぬ程の御同情を賜わっておりますとの事で御座いますが
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