「あなた様の御運命を、ずっと前から人知れず、私だけが存じ上げておりました。あなた様からの結婚の御申込みを受けますものは、私という女よりほかにおりませぬでしょうことを、くり返しくり返し想像致しまして、ふるえ、おののきつつ月日を送っておりました」
と申し上げましたならば、そんな事があり得よう筈はないと、すぐに思し召すで御座いましょう。あとからそのような作り事をして、結婚を避けようとしているのではないかと、お疑いになるで御座いましょう。
けれども、このような場合に作りごとを申しましてどう致しましょう。
忘れも致しませぬ、あの丸の内演芸館内の演奏場で、私は拙ないピアノの独奏を致しておりました二日目の事で御座いました。明治音楽会の幹事をしておられます松富さんが、楽屋の入口でヒョイと私の肩をおたたきになりまして、こんな事を云われました。
「井《い》ノ口《ぐち》さん。シッカリおやんなさいよ。名優の菱田新太郎君が昨日《きのう》からたった一人であの一番うしろの席に来ておられるのですよ、新太郎君は女嫌いと西洋音楽嫌いで有名な人なんですからね。それが男嫌いで通っている、貴女《あなた》の演奏をききに来て
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