と、お母様は井ノ口家のたった一粒種で御座いましたが、七歳の時に御自分の初のお節句にお貰いになった押絵の人形をこわして見て、それを又作り直してひとり手に押絵の作り方をお覚えになったのだそうです。それから後《のち》、お手習いが済みますと、人形の顔形や花もようなぞを鼻紙や草紙の端に描いて、いつまでもいつまでも遊んでおいでになりましたそうで、お友達なぞも先方から遊びに来られなければ、こちらからは進んでお出でになるようなことはありませんでした。そうして十歳位になられた時に、遊び事に作られた押絵の人形が評判になって売れて行きましたので、私のお祖父《じい》様やお祖母様がビックリなすったそうです。
お母様はそれから十一になられますと、博多の小山《おやま》という所の母方の御親戚に当るお婆さんの処へ行って、機織《はたおり》、裁《た》ち縫《ぬ》いなぞをお習いになりましたが、そのお婆さんが名高い八釜《やかま》し屋《や》のお師匠さんでしたのに、お母様ばかりは何も云われませんでしたそうで、十四歳の時には、もうお師匠様と変らぬ位にお出来になりました。刺繍なぞもその頃から遊びごとに作られたのが、大人《おとな》のそれ
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