りました。
お父様は黙ってその姿を見ておいでになる御様子でしたが、暫くして又今度は低い押しつけるような声で、静かに云われました。
「おぼえがあろうの……」
「エエッ……ぞんじがけもない……夢にも……マア」
とお母様は青白い顔と、紅くなった眼をお上げになりました。
「黙れっ」
とお父様のお声は又、雷のように私のうしろからはためきました。私の右の耳がジイーンと鳴る位でした。
「おぼえがないとて証拠があるぞッ」
お母様はそう云われるお父様のお顔をジッと御覧になりながら、飛白《かすり》の前垂れの上に両手をチャンと重ねて、無理に気を落ちつけようとしておられるようでしたが、その悩ましくも痛々しいお姿を私は死んでも忘れますまい。けれどもお母様のお声はいつもと違って、ふるえてカスレておりました。
「……ど……どのような……」
「黙れ黙れッ。どのようなとは白々《しらじら》しい……あの櫛田神社の犬塚信乃の押絵の顔は誰に似せて作ったッ」
お母様は長い長い溜め息をホーッとなされました。静かに私の顔を見ながら云われました。
「そのトシ子に肖《に》せて作りました」
「そのトシ子の……こやつの顔は誰に似ている」
と云うなり、お父様は両手で私のお煙草盆に結《ゆ》っている頭をガッシと掴んで、お母様の方へお向けになりました。
「エエッ……」
というお母様の声だけは聞こえましたが、私の左の眼に、お父様のどの指かが這入りまして、ビクビクと痛みましたので私は眼をあけることが出来なくなって、お父様の手を掴まえて藻掻《もが》いておりました。そのうちにお父様の声は、なおも続きました。
「俺は今日がきょうまで知らなんだ。けれども最前あの櫛田神社の額を見ながら、人の噂をきいているうちに、あの犬塚信乃の押絵の顔が、中村半太夫の舞台に生き写しであることがわかった。そればかりでない。貴様の作った人形の顔が上物《じょうもの》になればなる程、中村半太夫に似ていることも、そこに居った人の噂で初めて気が付いた。コヤツ(私)の眼鼻立ちが中村半太夫と瓜二つになっていることは近所の子守女まで知っていることもあの絵馬堂で初めてきいた。……この年月《としつき》貴様に子が生まれぬわけも今はじめてわかった。……キ……貴様は、よくもよくもこの永い間俺に恥をかかせおったナ」
こうした声が響き渡るうちにお父様は片方の手を私の頭から離されましたので、私はやっと眼を開《あ》くことが出来ました。
お母様は畳の上に両袖を重ねて突伏《つっぷ》しておられました。そうして声を押えて泣き続けておいでになりましたが、不思議と一言も云い訳をしようとはなさいませんでした。
私は、いつもお父様がカンシャクをお起しになった時のようにお母様はすぐにお詫びになることとばかり思っておりましたけれども、お母様はこの時ばかりはどうした訳《わけ》か只お泣きになるばかりで、しまいには、その声さえ包まずに心ゆくばかり泣いておいでになったようです。
その声をジッと聞いておいでになったらしいお父様は、やがて武士らしい威厳のある声でこう云われました。
「おれは覚悟した。貴様の返事一つでは、その場を立たせずにこの刀で成敗をしてくれる。先祖の位牌を汚した申訳にするつもりだ。サア、返事をせぬか」
と云いながらお父様は私の頭から手を放して、又帯際をお掴まえになりました。
その時にお母様はピッタリと泣き止んで静かに顔をお上げになりました。うつむいたまま紺飛白《こんがすり》の前垂れを静かに解いて、丁寧に畳んで横にお置きになって、それから鼻紙でお顔の乱れを直して、ほおけかかった髪を丸櫛で、掻き上げてから、やおら眼をあげてお父様を御覧になりましたが、その時のお母様の神々《こうごう》しかったこと……悲しみも、驚きも、何もかもなくなった、女神のような清浄なお方に見えました。
お母様はそれから両手をチャンと、畳の上に揃えながらジッとお父様のお顔を見上げながら云われました。
「申訳御座いません……お疑いは御尤《ごもっと》もで御座います」
と云ううちに新しい涙がキラキラと光って長い睫《まつげ》から白い頬に伝わり落ちましたが、お母様はそのまま言葉をお続けになりました。
「どうぞ、お心のままに遊ばしませ。私は不義を致しましたおぼえは……」
「何ッ……何ッ……」
「不義を致しましたおぼえは毛頭御座いませぬが……この上のお宮仕えはいたしかねます」
「……………」
「お名残り惜しうは御座いますが、あなたのお手にかかりまして……」
「何ッ……何じゃと……」
と云いつつお父様はグイグイと私を、おゆすぶりになりました。
お母様はハフリ落つる涙を鼻紙でお押えになりました。
「ただ、そのトシ子だけは、おゆるし下さいますように……。それは正《まさ》しくあなた様の……」
「
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