心付きまして、何となく気が咎《とが》めますままにフイとほかの町すじへ外《そ》れて行きました。その気恥かしう御座いましたこと……。
けれども、そのうちに暑中休暇が参りますと私は又、思いも寄りませぬことで、このような悲しい、浅ましい悩みから救われるようになりました。それはずっと前から岡沢先生の御書斎に置いてありました昔の八犬伝の御本を、何気なく引き出して開いて見てからの事で御座います。
私はそれこそホントに何の気なしで御座いました。ただ、永い日のつれづれに二階の窓からお隣りの屋根を見ておりますうちにフト、芳流閣の押絵を思い出しまして、信乃と現八は何故あの高い屋根の上で闘わなければならぬのでしょうとチョット不思議に思いましたので、その絵の描いてある処を探し出して前へ前へと読み返して行きますうちに、いつの間にか、その話のおもしろさに釣り込まれてしまいました。そうして、しらずしらずのうちに一番初めに立ち帰りまして、八犬伝の全体の女主人公になっておられる伏姫《ふせひめ》様が夫と立てておられる八《や》つ房《ふさ》という犬に身を触れずにみごもられた……というお話の処まで読んでしまいました。
そのお話につきましては作者の曲亭馬琴という方が昔からのいろいろな例を引いて、さもさも本当らしく書いておられるのでしたが、それを読みました時の私の驚きは、まあどんなで御座いましたでしょう。申すまでもなくその時まで私自身には、そのような事について何の知識も持たなかったので御座いましたが、それでもこの世にはキットそんな事があり得るに違いないという事をその時にどんなにか固く信じましたことでしょう。お母様のお言葉の秘密を解く鍵は、このお話のほかにないと思いまして、どんなにか夢中になって喜びました事でしょう。そうして、なおも先の方を読んで参りますと、その八つ房という犬の思い子となって生れた八犬士の身体《からだ》には、その父の犬の身体についていた八ツの斑紋が一ツずつ大きなほくろ[#「ほくろ」に傍点]となってあらわれて、親子のしるしとなっていたという事まで詳しく書いてあるでは御座いませんか。
それは私にとりまして、それこそ眼も眩《くら》むほどの奇蹟的な喜びで御座いました。われと胸をシッカリと抱きしめて、時々は涙を流してまで溜め息をしいしい読み続けたことでした。
――男と女とが、お互いに思い合っただけで
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