のは襟《えり》だけですが、父のように黒とか黄とかいうような凝《こ》った渋好みのものは僕みたいに未熟な者には迚《とて》も使えませんから、もっとほかの古代紫か水色か何かにしようと思っています。父親の追善ですから白襟にしようかとも思っていますが、どうも僕の力では、そんな気分が出せそうにもありませんので、どうしようかと考えているところです。
 十三貫目の衣裳の由来ですか……それは詳しい事は知りませんが、何でも僕が生れました年の正月(明治二十四年)から父は関西地方の興行に出かけまして、長崎から博多を打ち止めにして、三月のお芝居に間に合うように帰って来たそうです。その時にどこかで何かを見て感じたのでしょう。今度の旅行のお土産だといって、こんな衣裳を工夫し出しますと、これが一番いいというので一代改めなかったのだそうです。
 しかし御承知の通り父はとても凝《こ》り性《しょう》でしたので、指《さ》し図《ず》がなかなか八釜《やかま》しくて職人は面喰い通しだったそうです。型の方も特にこの衣裳のために改めた箇所があります位で、初め「あずまや」と申しまして某家の御秘蔵品を模した唐織好みの草色の裲襠《うちかけ》を着て出て来るのですが、琴にかかる前にうしろ向きになって、その裲襠を脱いで、正面に直るまでに衣裳の全体を皆様にお眼にかけるようになっております。
 ところで、その牡丹の花の中で開いている五ツと、その上に飛んでいる三ツの蝶々は、造り物で浮かしてありまして、シグサのたんびにユラユラと動くようにしてありますので、衣裳に台座を作っておいて、裲襠を脱ぐ時に一々手早く止めさせるという凝りようです。そのほか、隅々まで舞台|栄《ば》えばかりを主眼にしてありまして、利き処利き処には無闇と針金や鯨鬚《くじらひげ》や鉛玉《なまり》なんぞを使ってあるのですが、それでいてスッキリと、しなやかにという注文ですから職人もよっぽど屁古垂《へこた》れたことでしょう。
 父の方も元来が凝り性なのに、この衣裳ばかりは又特別で、うわごとにまで云う位だったそうで、スッカリ気に入るまでには小《こ》一年もかかりまして、僕が生れると間もない翌年の春狂言にやっと間に合った位だそうです。その前に父は二度ばかりどこか(多分関西でしょう)へ行きまして、この衣裳のお手本を見て来ていろいろ細かい指図をし直しましたし、春芝居の間際になってから、着付
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