、お母様の大切な秘密を唯一人御存じの中村珊玉様がお亡くなりになった事さえも気付かずにいたでは御座いませんか。これが一年前でありましたならば、こんなよい折は願ってもない筈でしたのに……そうして井の口の娘と名乗って中村珊玉様にお眼にかかる機会が出来たかも知れないのに……私は、まあ何という不幸者であったろうと思いますと、思わず口惜し涙が出そうになりましたので、そのままお湯を取りに行くふりをしてお台所の方へ行きました。
けれどもそのお夕飯後になりますと先生の御用で、二三町先の荒物屋の前まで郵便を出しに参りましたので、そのついでに私は大急ぎで遠まわりをしまして、裏町の小さな文具屋兼業の雑誌屋からその月の「歌舞伎時代」という雑誌を一冊買って参りました。そうしてお二階の私の室《へや》に帰りますと夕明りのさす窓際に坐って、怖いものでも見るようにソッと開いて見ました。
私は、それまでそのような雑誌に手を触れたことすらありませぬホントの田舎娘で御座いました。もっとも俳優の方のお名前は、ほかの方よりも沢山に存じておったかも知れませぬけれども、それはお母様の錦絵についておりました古い古いお方の名前ばかりで、近頃のお方のお名前は一人も存じませんでした。まして中村珊玉様に男のお子さんがおありになる事だの、それが私とおない年でおいでになる貴方様で、中村半次郎様と仰有る事なぞ夢にも存じませんでしたので、そうと知りますと、もう不思議なおなつかしさが一パイになりまして、まだ表紙を開きませぬうちから顔が熱《あ》つくなるように思いました。
申すまでもなく、あなた様と、お父様の、お素顔の写真を拝見致しましたのはその時が初めてで御座いました。そうして、まことに失礼では御座いますけれど、最初に大きく出ておりました貴方様のお父様の、十徳を召したお顔をジイと見上げておりますうちに、柴忠さんの処のお湯殿の鏡の中で見ておりました私の顔が、マザマザと浮き出して参りました時の私の胸の轟きはどんなで御座いましたでしょう。今更に不思議なような、恐ろしいような……そうしてたまらなくおなつかしいような……それでもそう思ってはならぬと……いうような何ともいえませぬ思いにわななきながら、いつまでそのお写真を見入っておりましたことでしょうか。
けれども、そうした私の思いは、その次の頁《ページ》を開きますと一緒にかき消されてしまい
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