が、正面の入口からソッとお這入りになりまして、電燈の下の壁にお倚《よ》りかかりになりました。
そのお姿を楽譜の蔭からチラリと見ました時の私の胸の轟きは、どんなで御座いましたでしょう。その時にあなた様は急いでお出《い》でになりましたせいか、人に気づかれないように壁に身体《からだ》をお寄せになって色眼鏡を外《はず》して汗をお拭きになってから、ソッと私の方を御覧になりました。
そのお顔をハッキリと眼には残しながら、死ぬかと思われるほどの不思議な驚きに打たれました私は、思わず気を失ってしまいまして、皆様に一方《ひとかた》ならぬ御心配をかけました。それのみか、思いもかけませず喀血を致しまして、明治音楽会に一つしか御座いませぬ大切なピアノを汚《よご》しましたために、折角《せっかく》の演奏会が中止になりましたとの事で、ホントにどうしてお申訳《もうしわけ》を致しましょうかと、思い出しては溜息を重ねているばかりで御座います。皆様は、それを私が予《か》ねてから職業に熱心のあまり忍び包んでおりました病気のためとばかり思し召して、私の身にとりまして堪えられぬ程の御同情を賜わっておりますとの事で御座いますが、まあ、何という勿体ない事で御座いましょう。
けれども、ほんとの事を申しますと、私が失神致しましたのは、そうした病気のせいではなかったので御座います。
私はあの時に、色眼鏡をお外しになった貴方様のお顔を拝見致しますと一緒に、もすこしで、
「あっ。お母様……」
と叫びそうになったので御座います。そんなにまで貴方様のお顔が私の亡くなったお母様に似ておいで遊ばしたからで御座います。
もっとも、あなた様のお姿が、私のお母様にソックリでおいで遊ばすことは、予ねてから、色々な雑誌に出ております写真で、よく存じてはおりました。けれども、あのようにソッと私を御覧になりました愛情にみちみちたお眼づかいまでが、ソックリそのまま、私のお母様に生き写しでおいでになりましょうとは夢にも想像致しておりませんでしたので、失礼な言葉か存じませぬけれども、あの時貴方様は、私のお母様の生れかわりとしか思われなかったので御座います。
私はもう、そう思いますと一緒に、私の運命が眼の前で行き詰まりかけておりますことがアリアリとわかりました。そうして、つい気が遠くなってしまいましたので、病気のせいではありませぬ事を、心
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