になったように思います。
お母様はその日からその五枚続きの絵を雁皮紙《がんぴし》に写し取って、合わせ紙に貼り付けたり切り抜いたりして、お仕事にかかられまして五日目には立派に仕上ったのを楠《くすのき》の一枚板に貼り付けておしまいになりました。
その楠の板は木目が雲のようになっておりまして、その上に芳流閣の金の鯱鉾《しゃちほこ》と青い瓦とが本物のように切りつけられておりました。その金の鯱の前に片膝をついて刀を振り上げている信乃の顔は、お母様が私の眼や鼻をソックリ男のようにお描《か》きになりましたもので、それに向い合って身構えている現八の顔にはお父様の眼と鼻が生き生きと睨みかえっておりました。わけてもその現八の前垂れの美しかったこと……それはスッカリ本物の通りの刺繍をお入れになったので……こればかりで一寸四方いくらの値打ちがある。櫛田神社の絵馬堂に上げても盗まれぬように工夫せねば……と見に来た柴忠さんが云っておられたそうです。
その押絵は、その春の末、博多で名高い山笠のお祭りのある前に櫛田神社の絵馬堂にあがりました。その額はやはり柴忠さんの工夫で厚い硝子張りの箱に封じた上から唐金《からかね》の網に入れて、絵馬堂の東の正面に、阿古屋の琴責めの人形と並んで上がったのですが、檜の香気《かおり》のために、何もかも真白になる程色が落ちている阿古屋の人形と見比べますと、ホントに眼が醒めるようで、一時は絵馬堂が人で一パイになるくらい評判が立ったそうで御座います。
するとその評判をお聞きになったものかどうか存じませぬが、お父様は、忘れもしませぬ明治二十四年の五月二十四日のお昼前に、
「俺はちょっとその見物人を見て来る」
と仰有って新しい飛白《かすり》の着物にいつもの小倉《こくら》の角帯《かくおび》を締めてお出かけになりました。
その日は太陽がカンカン照っておりましたが、お父様は、
「雨になるかも知れぬ」
と云って大きな白ケンチウ張りの洋傘《こうもり》を持って、竹細工の山高帽を冠って、中足高《ちゅうあしだか》をお穿《は》きになりました。私も行きたいと思いましたがお父様が、
「人が大勢居ると危ないから又連れて行ってやる。土産を買《こ》うて来てやるから待っとれ」
と云い棄てて川端を水車橋の方へお出でになりました。そのニコニコと歩いてお出でになった横顔を私は今でも眼の前に思い浮か
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