ますと、そうしたお母様のお心持ちがよくわかるように思いますので、つまりを申しますとお母様のお心は、私をお生みになりましてからというもの人間世界をお離れになって、唯《ただ》、お仕事の一つに注ぎ込んで、ほかの事(それが何でありましたかという事は誰にわからなかったろうと思いますが)を忘れよう忘れようとしておいでになったのではないかと思われるので御座います。
何を申しましても私が生れましたのが阿古屋の琴責めの人形が出来ました年の新《しん》の師走《しわす》も押し詰まった日で御座いましたのに、それから一箇月半ほど経った新の二月の中旬を過ぎますと、もう家《うち》の事はもとより、旧正月の仕事として外《ほか》から頼んで来る裁縫や袱紗《ふくさ》の刺繍、縫紋《ぬいもん》、こまこました押絵の人形など、どんなにお忙がしくともお断りにならなかったそうです。これは私が物心ついてから後《のち》も同じ事で、羽織、袴、婚礼の晴着と急ぎの頼みを、夜《よ》の眼も寝ずにお作りになるほかに、お父様の漢学のお稽古のあとで、近いあたりの娘さんが十人ばかりもお稽古に来られます。それを教えながらお母様は家内四人(お祖母様のも)の着物まで縫われますので、そのまめなことと熱心なことは、子供心にも感心する位で御座いました。夏の暑い夜、蚊に責められてもお構いにならず、冬の寒い日に手足をお温めになる暇もない位セッセとお仕事を励まれました。
その頃町つづきの博多福岡では大変に押絵が流行致しましたので、町の大家なぞは、女の児《こ》が生れますと初のお節句にはみんな柴忠さんのように、お芝居の小さな舞台を作りまして、その中に押絵の人形を立てますので、三人組なれば三円、五人組なれば五円と、向うから高価《たか》い値段をきめて頼みに来ました。お母様は、そんなにお金をかけては出来がわるいと云われましても、先方で聞き入れません。それにお父様が「出来るだけの加勢は俺がしてやる」なぞと仰言って、断るのをお好きになりませんでしたので、お母様は泣く泣く引き受けておられました。その頃はお米が一|升《しょう》十銭より下で御座いましたろうか。
「米が十銭すれあサッコラサノサ」
という歌が流行《はや》っておりました位で御座いますが、そんなお金の事などは一切お父様がなすって、きょうはいくら、明日《あす》はいくらと駅逓《えきてい》局(その頃はもう郵便局と云って
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