と、お母様は井ノ口家のたった一粒種で御座いましたが、七歳の時に御自分の初のお節句にお貰いになった押絵の人形をこわして見て、それを又作り直してひとり手に押絵の作り方をお覚えになったのだそうです。それから後《のち》、お手習いが済みますと、人形の顔形や花もようなぞを鼻紙や草紙の端に描いて、いつまでもいつまでも遊んでおいでになりましたそうで、お友達なぞも先方から遊びに来られなければ、こちらからは進んでお出でになるようなことはありませんでした。そうして十歳位になられた時に、遊び事に作られた押絵の人形が評判になって売れて行きましたので、私のお祖父《じい》様やお祖母様がビックリなすったそうです。
 お母様はそれから十一になられますと、博多の小山《おやま》という所の母方の御親戚に当るお婆さんの処へ行って、機織《はたおり》、裁《た》ち縫《ぬ》いなぞをお習いになりましたが、そのお婆さんが名高い八釜《やかま》し屋《や》のお師匠さんでしたのに、お母様ばかりは何も云われませんでしたそうで、十四歳の時には、もうお師匠様と変らぬ位にお出来になりました。刺繍なぞもその頃から遊びごとに作られたのが、大人《おとな》のそれよりも綺麗でシッカリしていたという事で御座います。

 私のお父様が月川家から御養子にお出でになりましたのは、お母様の十五の年で、お父様のお年はたしか二十四歳でした。
 それから、これはお母様の事ですが、お母様が御婚礼をなすったあくる年の十六のお正月に、お仕事のお師匠様の処へ御年始にお出でになりました節、御親戚の事とてお師匠様はお雑煮《ぞうに》を出すからと用意をされました。その時にある人が板のような厚い博多織の男帯を持って来まして、これは今|上方《かみがた》から博多に来ている力士の帯で、わざわざ博多へ注文して織らせて上方で仕立てさしたものだけれど、何だか結び目が工合が悪くて気に入らないから、又仕立て直さしたけれども矢張りいけない。博多織を扱いつけておられるこっちのお師匠さんよりほかに仕立て直して頂く処がなくなりましたから持って来ましたと申しました。するとお師匠さんのお婆さんが、それはよいところへ見えました。今ちょうど何でもお出来になる福岡一の美しい奥さんが見えているから、といってお母様に押しつけて仕舞われました。
 お母様は怖い、意地の悪いお師匠様のお言葉を背きもならず、その上に私のお
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