び》の指紋はコレダという事を警官に突き止められたとしたら、ソモソモどんな事になったでしょうか」
「……………」
「……あなたはそれでも、すべてを夢中遊行のせいにして、知らぬ存ぜぬの一点張りで押し通されるかも知れませんね。又、司法当局も、あなたの平常の素行から推して、今夜の兇行を貴方の夢中遊行から起った事件と見做《みな》して、無罪の判決を下すかも知れませんネ。しかし……しかし、多分、その裁判には私も何かの証人として呼び出される事と思いますが……又、呼び出されないにしても、勝手に出席する権利があると思うのですが……その裁判に私が出席するとなれば、断じてソンナ手軽い裁判では済みますまいよ。どの方面から考えても、貴方は死刑を免れない事になるのですよ。……私は事件の真相のモウ一つ底の真相を知っているのですから……」
……私は愕然《がくぜん》として顔を上げた。
私は今の今まで私の胸の上に捲き付いて、肉に喰い込むほどギリギリと締まって来た鉄の鎖が、この副院長の最後の言葉を聞くと同時に、ブッツリと切れたように感じたのであった。そうして吾《われ》を忘れて、まともに副院長の顔を見上げた……その唇にほのめいている意地の悪い微笑を……その額に輝いている得意満面の光りを、臆面もなく見上げ見下す事が出来たのであった。……事件の真相の底……真相の底……私の知らないこの事件の真相の奥底……と、二三度心の中《うち》で繰返してみながら……。そうして、
……この男は、まだこの上に、何を知っているのだろう……。
と疑い迷っているうちに、又もグッタリと寝台の上に突っ伏して、重ね合わせた手の甲に額の重みを押し付けたのであった。ヘトヘトに疲れた気持ちと、グングン高まって来る好奇心とを同時に感じながら……。
その時に副院長は、すこし音調を高くして言葉を継いだ。恰《あたか》も私を冷やかすかのように……。
「……あなたはエライ人です。あなたはこんな仕事に対する隠れたる天才です。あなたは昨日《きのう》の朝、足の夢を見られると同時に……そうしてあの有名な宝石|蒐集狂《しゅうしゅうきょう》の未亡人が、入院した事を聞かれると同時に、この仕事の方針を立てられたのです。……否……あなたはズット前から、何かの本で夢遊病の事を研究しておられたもので、足の夢を見られたというのも、あなたがこの事件に就いて計画された一つの巧妙なトリックだったかも知れないのです。
……その証拠というのは、特別に探すまでもありません。昨夜の出来事の全部が、その証拠になるのです。貴方は、あなたが遂行された歌原未亡人惨殺事件の要所要所に、夢遊病の特徴をハッキリとあらわしておられるのです。……雪洞《ぼんぼり》型の電燈の笠にボヤケた血の指紋をコスリ付けられたところといい、一等若い、美しい看護婦の唇の上に、わざとクロロフォルムの綿を置きっ放しにして、殺してしまわれた残忍さといい……その綿は馬鹿な警官が、大切な証拠物件として持って行ったそうですが……そのほか男爵未亡人の枕元に在った鼻紙と、その上に置いて在った硝子《ガラス》製の吸呑器《すいのみき》を蹴散《けち》らしたり、百|燭《しょく》の電燈を点《つ》けっ放《ぱな》しにして出て行ったり、如何にも夢遊病者らしい手落ちを都合よく残しておられます。その中でも特に、男爵未亡人の着物や帯をムザムザと切断したり、繃帯を切り散らして、手術した局部を露出したり、最後に又、その兇行に使用した鋏を、モウ一度深く胸の疵口《きずぐち》に刺し込んだまま出て行かれたりしているところは、百パーセントに夢中遊行者特有の残忍性をあらわしておられるのです。曾《かつ》て専門の書類でそんな実例を読んだ事のある私とても、この事件に対する貴方の準備行為を見落していたならば……ただ、事件そのものだけを直視していたならば、物の見事に欺かれていたに違い無いと思われるほどです。あなたの天才的頭脳に飜弄《ほんろう》されて、単純な夢遊病の発作と信じてしまったに違い無いと思って、人知れず身ぶるいをしたくらいです」
「……………」
「……どうです。私がこの以上にドンナ有力な証拠を握っているか、貴方にわかりますか。この惨劇の全体は、夢遊病の発作に見せかけた稀《まれ》に見る智能犯罪である。貴方の天才的頭脳によって仕組まれた一つの恐ろしい喜劇に過ぎないと、私が断定している理由がおわかりになりますか」
「……………」
「……フフフフフ。よもや知るまいと思われても駄目ですよ、私は何もかも知っているのですよ。……貴方は昨日の午後のこと、同室の青木君が外出するのを待ちかねて、この室《へや》を出られたでしょう。そうしてあの特一号室の様子を見に、玄関先まで来られたでしょう。それから標本室へ行って、麻酔薬の瓶が在るかどうかを確かめられたでしょう。貴
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