方はあの標本室の中に、いろんな薬瓶が置いてあるのを前からチャント知っておられたに違い無いのです。……そうでしょう……どうです……」
「……………」
「……ウフフフフフ、私がこの眼で見たのですから、間違いは無い筈です。それは貴方の巧妙な準備行為だったのです。私があの時に、あなたの散歩を許さなければコンナ事にはならなかったかも知れませんが、貴方は巧みに偶然の機会を利用されたのです。そうしてこの犯行を遂《と》げられたのです」
「……………」
「……私の申上げたい事はこれだけです。私は決して貴方を密告するような事は致しません。私は貴方がW文科の秀才でいられる事を知っていますし、亡くなられた御両親の学界に対する御功績や、現在の御生活の状態までも、ある人から承って詳しく存じている者です。このような事を計画されるのは無理も無いと同情さえして上げているのです。ですからこそ……こうしてわざわざ貴方のために、忠告をしに来たのです」
「……………」
「……もう二度とコンナ事をされてはいけませんよ。人を殺すのは無論の事、かり初《そ》めにも貴重品を盗んだりされてはいけませんよ。貴方の有為な前途を暗闇にするような事をなすっては、第一あなたの純真な……お兄さん思いのお妹さんが可哀想ではありませんか。あの美しい、お兄様|大切《だいじ》と思い詰めておられる、可哀想なお妹さんの前途までも、永久に葬る事になるではありませんか」
 副院長は声を励《はげ》ましてこう云いながら、ポケットに手を突っ込んだ。そうして薄黒い懐中《かみいれ》みたようなものを取り出すと、掌《てのひら》の中で軽々と投げ上げ初めた。
「……いいですか。これはタッタ今、あなたの寝台のシーツの下から探し出した、歌原未亡人の宝石入りのサックです。この事件と貴方とを結び付ける最後の証拠です。同時に貴方の夢中遊行が断じて夢中[#「夢中」に傍点]の遊行[#「遊行」に傍点]ではなかった、極めて鋭敏な、且《か》つ、高等な常識を使った計画的な殺人、強盗行為に相違無かった事を、有力に裏書する証人なのです。もう一つ詳しく説明しますと、この中に在る宝石や紙幣の一つ一つを冷静に検査して行かれた貴方の指紋は、そのタッタ一ツでも間違いなく、貴方を絞首台上に引っぱり上げる力を持っているでしょう……それ程に恐ろしい唯一無上の証拠物件なのです。……ですから……コンナものを貴方が持っておられると大変な事になりますから、とりあえず私がお預かりして行くのです。もう間もなく、あの特等病室の汚れた藁蒲団《わらぶとん》を、人夫が来て片付ける筈ですから、その時に私が立ち会って、寝床の下から出て来たようにして報告しておいたらドンナものかと考えているところですが……むろんその前にこの中の指紋をキレイにしておかなければ何もなりませんが……ドチラにしても死んだ人には気の毒ですが、今更取返しが付かないのですから、後はこの病院の中から縄付きなどを出さないようにしなければなりません。すぐに病院の信用に響いて来ますからね……いいですか。……忘れてはいけませんよ。今夜の事はこの後《のち》ドンナ事があっても、二度と思い出してはいけない……他人に話してはならない。勿論お妹さんにも打ち明けてはいけません……という事を……」
 そう云ううちに副院長は、ジリジリと後しざりをした。そうして扉《ドア》のノッブに凭《よ》りかかったらしく、ガチャリと金属の触れ合う音がした。

 その音を聞くと同時に、ベッドの上にヒレ伏したままの私の心の底から、形容の出来ない不可思議な、新しい戦慄《せんりつ》が湧き起って、みるみる全身に満ちあふれ初めた。それにつれて私は奥歯をギリギリと噛み締めて、爪が喰い入る程シッカリと両手を握り締めさせられたのであった。
 しかし、それは最前のような恐怖の戦慄ではなかった。
 ……俺は無罪だ……どこまでも晴天白日の人間だ……
 という力強い確信が、骨の髄までも充実すると同時に起った、一種の武者振るいに似た戦慄であった。
 その時に副院長が後手《うしろで》で扉《ドア》のノッブを捻《ねじ》った音がした。そうして強《し》いて落ち付いた声で、
「……早く電燈を消してお寝《やす》みなさい。……そうして……よく考えて御覧なさい」
 という声が私を押さえ付けるように聞えた。
 途端《とたん》に私は猛然と顔を上げた。出て行こうとする副院長を追っかけるように怒鳴った。
「……待てッ……」
 それは病院の外まで聞えたろうと思うくらい、猛烈な喚《わ》めき声であった。そう云う私自身の表情はむろん解らなかったが、恐らくモノスゴイものであったろう。
 副院長は明かに胆《きも》を潰《つぶ》したらしかった。不意を打たれて度を失った恰好で、クルリとこっちに向き直ると、まだ締まったままの扉《ドア》を小
前へ 次へ
全23ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング