手足の血痕を洗い落されました。そうして愚《おろか》にも、麻酔に使われた硝子《ガラス》の小瓶を、水洗式の壺に投げ込んで打ち砕いたあとで、水を放流されたまでは、誠に都合よく運ばれたのですが、その軽いコルクの栓が、U字型になっている便器の水堰《みずせき》を超え得ないで、烈しい水の渦巻きの中をクルクル回転したまま、又もとの水面に浮かみ上がって来るかどうかを見届けられなかったのは、貴方にも似合わない大きな手落ちでした。明日《あす》にも私が警官に注意をすれば、あの便所の中から瓶の破片を発見する事は、さして困難な仕事ではないだろうと思われます。……どうです。私がお話しする事に間違いがありますか」
私は私の身体《からだ》の震えがいつの間にか止まっているのに気が付いた。そうして私が丸ッキリ知らない事までも、知っているように話す副院長の、不可思議な説明ぶりに、全身の好奇心を傾けながら耳を澄ましている私自身を発見したのであった。
……何だか他人の事を聞いているような気持になりながら……。
その時に副院長は又一つ咳払いをした。そうして多少得意になったらしく、今迄より一層|滑《なめら》かに、原稿でも読むようにスラスラと言葉を続けた。
「……警察の連中はたしかに方針を誤っているのです。十中八九までこの事件を、強力犯《ごうりきはん》係の手に渡すに違い無いと思われます。その結果、この事件は必然的に迷宮に入って、有耶無耶《うやむや》の中《うち》に葬られる事になるでしょう。……しかし、かく申す私だけは、専門家ではありませんが、警察の連中に欠けている医学上の知識を持っている御蔭《おかげ》で、この事件の真相をタヤスク看破する事が出来たのです。この事件が当然智能犯係の手に廻るべきものである事を、一目で看破してしまったのです。
……この事件は時日が経過するに連れて、非常に真相のわかり難《にく》い事件になるでしょう。……何故かというとこの事件は、すくなくとも三重の皮を冠っているのですからね……その表面から見ると疑いも無い普通の強窃盗《ごうせっとう》事件ですが、その表面の皮を一枚めくって、事件の肉ともいうべき部分を覗いてみますと、極めて稀有《けう》な例ではありますが、夢遊病者が描き現わした一種特別の惨劇と見る事が出来るのです。夢中遊行者の行動は必ずしもフラフラヨロヨロとした、たよりのないものばかりに限られている訳ではありませんからね。普通人のようにシッカリした足取りで、普通人以上に巧妙な智慧を使って、複雑深刻を極めた犯罪を遂行《すいこう》する事があると、記録にも残っているくらいですが正《まさ》にその通りです。貴方は、貴方特有の強健な趾《あしゆび》と、アキレス腱の跳躍力を利用して、この事件を遂行されたに違い無いのです。あなた独得の明敏な頭脳と、スバラシク強健な足の跳躍力とを一緒にして、この惨劇を計画されたに相違無いのです。あなたは標本室の薬液を盗んで、四人の女を眠らせて、この兇行を遂げられたのです。そうして夫人の懐中《かみいれ》を奪って、この室《へや》に帰って、その懐中《かみいれ》を寝床の下に隠してから、知らぬ顔をして便所に行かれたのでしょう。そこで血痕を残らず洗い浄めた後《のち》に、初めて安心して眠られたのでしょう」
私は又も、肋骨《あばらぼね》が疼《うず》き出す程の、烈しい動悸に囚われてしまった。今の今まで他人の事のように思って耳を傾けていた事件の説明が、急角度に私の方に折れ曲って来たので……そうして身動きも出来ない理詰《りづめ》の十字架に、ヒシヒシと私を縛り付け初めたので……。
「……貴方は最早《もう》、それで十分に犯罪の痕跡を堙滅《いんめつ》したと思っていられるかも知れませんが……しかし……もし……万が一にも私が、あの標本室に残された、貴方の重大な過失を発《あば》き立てたらドウでしょう。あなたが持って行かれた、あの小さな瓶のあとに残っている薄いホコリの輪と、クロロホルムの瓶の肩に、不用意に残された仔指《こゆび》らしい指紋の断片とを、司法当局の前に提出したらどうでしょう。……さもなくとも直接事件の調査に立ち会った宿直の宮原君が、警官から当病院内の麻酔薬の取扱方について質問された時に「それは平生《いつも》、標本室の中に厳重に保管してある。しかもその標本室の鍵は、この通り、宿直に当ったものが肌身離さず持っているのだから、盗み出される気遣《きづかい》は絶対に無い」と答えていなかったらどうでしょう。そればかりでなく、その後で、警官たちが他の調査に気を取られている隙《すき》に、宮原君が念のため先廻りをして、標本室の扉《ドア》に鍵が、掛かっているかどうかを確かめていなかったとしたら、どうでしょう。……あすこから麻酔薬を盗み出したものが確かにいる。……その人間の仔指《こゆ
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