け》て、この病院の中に紛れ込んでいたもので、出て行きがけには、明け放しになっていた屋上庭園から、玄関の露台に降りて、アスファルト伝いに逃走したものと見込みを付けているらしく、そんな方面の事を看護婦や医員に聞いておりましたそうです。私が来ました時にも官服や私服の連中が、屋根の上から、玄関のまわりを熱心に調査していたようです。
 ……一方に歌原家からは、身内の人が四五人駈け付けて来ましたので、その筋の許可を得て、夫人の死体を引き渡したのが、今から約三十分ばかり前の事ですが……むろん確かな事はわかりませんけれども、その筋では、余程大胆な前科者か何かと考えているらしく、敷布団《しきぶとん》の血痕や、雪洞《ぼんぼり》型の電球|蔽《おお》いに附着しているボンヤリした血の指紋なぞを調べながら「おんなじ手口だ」と云って肯《うなず》き合ったり「田端だ田端だ」と口を辷《すべ》らしていた……というような事実を聞きました。チョウド一週間ばかり前のこと、田端で同じような遣《や》り口の後家さん殺《ごろし》があった事が、大きく新聞に書き立ててあったのですから、その筋では事によると、同じ犯人と睨《にら》んでいるのかも知れません。
 ……併し私はまだ、それでも不安心のように思っておりますうちに、丁度玄関で帰りかけている旧友の予審判事に会いましたので、私はいい幸いと思いまして、特に力強く証言しておきました。歌原未亡人がこの病院に這入ったのは、まだ昨夜の事で、新聞にも何も出ていないのだから、これは多分、兼ねてから未亡人を付け狙っていた者が、急に思い付いて実行した事であろうと思う。この病院の現在患者は、皆相当の有産階級や知識階級である上に、動きの取れない重症患者や、身体《からだ》の不自由な者ばかりで、こんな無鉄砲な、残忍兇暴な真似の出来るものは一人も居ない筈である……と……」
 私は頭をシッカリと抱えたまま、長い、ふるえた溜息をした。それは今の話を聞いて取りあえず、気が遠くなる程安心すると同時に、わざわざこんな事を私に告げ知らせに来ている、副院長の心を計《はか》りかねて、何ともいえない生々《なまなま》しい不安に襲われかけたからであった。……だから……私はそう気付くと同時に、その溜息を途中で切って、続いて出る副院長の言葉を聞き澄ますべく、ピッタリと息を殺していた。
「……新東さん。御安心なさい。貴方は私がオセッカイをしない限り、永久に清浄な身体《からだ》でおられるのです。すくなくとも社会的には晴天白日の人間として、大手を振って歩けるのです。……けれども貴方御自身の良心と同時に、私の眼を欺《あざむ》く事は出来ないのですよ。いいですか。……私は特一号室の出来事を耳にすると同時に、何よりも先に貴方の事を思い出しました。昨日の午前中に、貴方を回診した時の事を思い出したのです。あの夢遊病の話を聞いておられた貴方の、異様に憂鬱な表情を思い出したのです。そうして誰よりも先に貴方に疑いをかけながら、自動車を飛ばして来たのです。……そうして歌原未亡人の死体を家人に引き渡すとすぐに、病室の取片付《とりかたづ》け方を看護婦に命じて、新聞記者が来ても留守だと答えるように頼んでから、コッソリと裏廊下伝いにこの室《へや》に来て、貴方の寝台のまわりを手探りで探したのです。盗まれた茶皮のサックがどこかに隠して在りはしまいかと思って。
 ……ところで私は先ず第一に、あなたの枕元に在る、その西洋手拭いを掴んでみたのですが、果せる哉《かな》です。タッタ今手を拭いたように裏表から濡れておりました。貴方がズット以前から熟睡しておられたものならば、そんな濡れ方をしている筈はないのです。それから私は気が付いて、あの向うの二等病室づきの手洗い場に行ってみましたが、手洗い場の龍口栓《コック》は十分に締まっていない上に、床のタイルの上に水滴が夥《おびただ》しく零《こぼ》れておりました。多分貴方は、コンナ事は怪しむに足りない。よくある事だからと思って、故意《わざ》とソンナ風にして血痕を洗われたのかも知れませんが、私の眼から見るとそうは思われません。血痕という特別なものを、そこで洗い落された貴方が、貴方自身の心の秘密を胡麻化《ごまか》すためにそうされたので、頭のいい、技巧を弄《ろう》し過ぎた洗い方だとしか思われないのです。
 ……私はそれから正面に三つ並んでいる大便所を、一つ一つに開いてみましたが、あの一番左側の水洗式の壺の中に、キルクの栓が一個浮いているのを見逃しませんでした。マッチを擦《す》ってみると、その水の表面にはホコリが一粒も浮いていない。つまり最近に流されたものである事を確かめて、イヨイヨ動かす事の出来ない確信を得ました。貴方はあの特一号室から出て来て、この室《へや》に品物を隠された後《のち》に、あすこに行って
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