科参考の異類|異形《いぎょう》な標本たちは、一様に漂白されて、お菓子のような感じに変ったまま、澄明なフォルマリン液の中に静まり返っている。
 私はその標本の棚を一つ一つに見上げ見下して行った。そうして一番奥の窓際の処まで来ると、最上層の棚を見上げたまま立ち止まって、松葉杖を突っ張った。
 私の右足がそこに立っているのであった。
 それは最上層の棚でなければ置けないくらい丈《たけ》の高い瓶の中に、股《もも》の途中から切り離された片足の殆《ほと》んど全体が、こころもち「く」の字型に屈《かが》んだままフォルマリン液の中に突っ立っているのであった。それは最早《もう》、他の標本と同様に真白くなっていたし、足首から下は、棚の縁に遮《さえぎ》られて見えなくなっていたが、その膝っ小僧の処に獅噛《しが》み付いている肉腫の形から、全体の長さから、肉付きの工合なぞを見ると、どうしても私の足に相違なかった。そればかりでなく、なおよく瞳を凝《こ》らしてみると、その瓶の外側に貼り付けてある紙布《かみきれ》に、横文字でクシャクシャと病名らしいものが書いてある中に「23」という数字が見えるのは、私の年齢《とし》に相違無い事が直覚されたのであった。
 私はソレを見ると、心の底からホッとした。
 何を隠そう私は、これが見たいばっかりに、わざわざ病室を出て来たのであった。午前中に同室の青木だの、柳井副院長だのから聞かされた「足の幽霊」の話で、スッカリ神経を攪《か》き乱された私は、もう二度と「足の夢」を見まい……今朝《けさ》みたような気味のわるい「自分の足の幻影」にチョイチョイ悩まされるような事になっては、とてもタマラナイ……とスッカリ震え上がってしまったのであった。……のみならず私は、この上に足の夢を見続けていると、そのうちに副院長の話にあったような、片足の夢中遊行を起して、思いもかけぬ処へ迷い込んで行って、飛んでもない事を仕出《しで》かすような事にならないとも限らないと思ったのであった。……私たち兄妹《きょうだい》は、早くから両親に別れたし、親類らしい親類も別に居ないのだから、私の血統に夢遊病の遺伝性が在《あ》るかどうか知らない。しかし、些《すくな》くとも私は、小さい時からよく寝呆《ねぼ》ける癖があったので、今でも妹によく笑われる位だから、私の何代か前の先祖の誰かにソンナ病癖《びょうへき》があって、それが私の神経組織の中に遺伝していないとは、誰が保証出来よう。しかも、その遺伝した病癖が、今朝《けさ》みたような「足の夢」に刺戟《しげき》されて、極度に大きく夢遊し現われるような事があったら、それこそ大変である。否々《いないな》……今朝《けさ》から、あんな変テコな夢に魘《うな》されて、同室の患者に怪しまれるような声を立てたり、妙な動作をしたりしたところを見ると、将来そんな心配が無いとは、どうして云えよう。天にも地にもタッタ一人の妹に心配をかけるばかりでなく、両親がやっとの思いで残してくれた、無けなしの学費を、この上に喰い込むような事があったら、どうしよう。
 私は今後絶対に足の夢を見ないようにしなければならぬ。私は自分の右足が無いという事を、寝た間《ま》も忘れないようにしなければならぬ義務がある。
 それには取りあえず標本室に行って、自分の右足が立派な標本になっているソノ姿を、徹底的にハッキリと頭に印象づけておくのが一番であろう。
「貴方の足に出来ている肉腫は珍らしい大きなものですが……当病院の標本に頂戴出来ませんでしょうか。無論お名前なぞは書きませぬ。ただ御年齢《おとし》と病歴だけ書かして頂くのですが、如何《いかが》でしょうか……イヤ。大きに有り難う。それでは……」
 と院長が頭を下げて、特に手術料を負けてくれた位だから、キット標本室に置いて在るに違い無い。その自分の右足が、巨大な硝子筒《がらすとう》の中にピッタリと封じ籠《こ》められて、強烈な薬液の中に涵《ひた》されて、漂白されて、コチンコチンに凝固させられたまま、確かに、標本室の一隅に蔵《しま》い込まれているに相違無い事を、潜在意識のドン底まで印象させておいたならば、それ以上に有効な足の幽霊封じ[#「足の幽霊封じ」に傍点]は無いであろう。それに上越《うえこ》す精神的な「足禁《あしど》め」の方法は無いであろう。
 こう決心すると私は矢も楯《たて》もたまらなくなって、同室の青木が外出するのを今か今かと待っていたのであった。そうしてヤット今、その目的を遂《と》げたのであった。果して足の幽霊封じ[#「足の幽霊封じ」に傍点]に有効かドウカは別として……。

 私のこうした心配は局外者から見たら、どんなにか馬鹿馬鹿しい限りであろう。あんまり神経過敏になり過ぎていると云って、笑われるに違い無いであろう事を、私自身にも意識し過ぎ
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