ていないから安心しろ。しかし、お前|一寸《ちょっと》その靴を両方とも見せてくれないか」
 こう云うとボーイはもとより室《へや》の中の一同は妙な顔をした。しかしボーイは素直に白い半靴を脱いで差出したので、私はそれを両方に提《さ》げて廊下に出たが、やがて帰って来ると、靴をボーイに返して飯村警部に代って訊問し初めた。
「お前は岩形さんを受持っていたんだろう」
「そうです」
「いくつになるね」
「十八になります」
「ハハハハ。十八にしちゃ意気地がなさ過ぎるじゃないか。お前が犯人でない事は……俺が……この狭山が保証する。その代り知っている事は何でもしっかりと返事しなければ駄目だぞ」
「ハイ……」
 とボーイはすすり上げながら頭を低《た》れた。私は一層、言葉を柔らげた。
「岩形さんが帰って来たのは昨夜《ゆうべ》の何時頃だったかね」
「……十二時半近くでした。それまで僕は……私は他のお客の相手をして玉を突いてました。そうしたら、仲間の江木がやって来て、お前の旦那は一時間ばかり前に帰って来ているんだぞ。知らないのかと申しましたから、私はすぐにキューを江木に渡して二階に駈け上りました。けれどもその時は……」
「扉《ドア》に錠が掛かっていたろう」
「そうです。それですぐに……自分の室《へや》に帰って寝てしまったんです」
 と云いながらボーイは深いふるえた溜息をした。私はそこで一つ意味ありげに首肯《うなず》いて見せた。
「あの岩形さんは、いつもそんな風にして寝てしまうのかね」
「いいえ。岩形さんはいつでもお帰りになるとすぐに私をお呼びになりますから、私はお手伝いをして、寝巻を着かえさせて、ベッドに寝かして上げるのです。どんなに酔っておいでになりましても、私に黙ってお寝《やす》みになった事は一度もありません。……貴様が女なら直ぐに女房にしてやるがなあ……なんて仰言《おっしゃ》った事もあります」
 この無邪気過ぎる言葉の不意打ちには室《へや》の中《うち》の十余名が一時に失笑させられた。隣の室《へや》にそう云った本人の屍骸が横わっているので一層滑稽に感じられたのであろう。謹厳そのもののような熱海検事までも顔を引っ釣らして我慢しかねた位であった。しかし無知なボーイは皆の笑い顔を見て安心したものか、見る見る血色を恢復して来た。そうして私の問いに任せて、岩形氏の平素《ふだん》の行状をぽかぽかと語り出したが、その概要を今までの調査の内容と綜合してみると結局こんな事になるのであった。
 岩形圭吾氏は現在|印度《インド》貿易商という触れ込みで、こうした東京一流のホテルに泊っている人物で、又、実際に金持ちらしく見えていたのであるが、その財産というのは、米国の加州辺で稼ぎ溜めたものらしい。これはその服装の好みと、日に焼けた色合いが同地方から来る日本人に共通しているところから、ボーイ|頭《がしら》の折井という男が睨んでいたものだという。そうしてその金は山下町の東洋銀行という銀行に十四万円ばかり当座預金にしてあったのを一昨十二日の午後に殆んど五分の四以上を引き出してしまったので、その銀行の支配人は弱っているだろうという噂《うわさ》である。その事情はやはりこのホテルの会計方の一人で宇田川という男が東洋銀行員の一人と懇意なために、ボーイ仲間の二三人に洩れたものらしい。
 それから岩形氏がこのホテルへ来たのは、ちょうど東洋銀行へ金を預け入れた日と同じ日らしかったが、印度貿易商と名乗りながらこれという仕事もないらしく、荷物でも皆無といっていい新しいトランク一つと、やはり新しいスートケース一個で、訪問客も、手紙も来ず、電話一つ掛って来ない。おまけにいつも外出勝ちで、朝飯のほかは昼も晩もホテルで喰う事は稀であった。のみならず帰って来るのはいつも夜の十時過ぎで、しかもベロベロに酔っている事が多かった。しかしボーイやホテルに対する仕打ちは慣れたもので、金遣いも綺麗だったから誰も怪しむ者はなく、蔭では皆十四番の黒さんと云いながら、表面では普通よりもすこし丁寧な扱いをしていた。ただ一度帳場の誰かが、
「十四番の黒さんは毎晩几帳面に帰って来るから可笑《おか》しいじゃねえか」
 と云い出した事がある。すると又誰かが、
「全くなあ。それに手紙が一本も来ねえお客も珍らしいぜ」
 と云い足した。けれどもその時にボーイ頭の折井がちょうど来合わせて、
「野暮な事を云うなえ。この節じゃ寝る処と仕事をする処とを別にするのが流行《はや》りなんだ。それとおんなじに気保養をする処も別にするんだ。毛唐等あみんなそうしてるんだぜ……みんな一緒にしちゃ息が抜けないからな。奴さんそこで一杯飲んで来るのよ。手紙なんざ事務所の方に行ってるに極《き》まってらあ。何も不思議はねえさ」
 と云い消したので、それっきりになっている。岩形氏が昼間のあいだどこで何をしているかというようなこともそれなりに問題にならないまんまで、おしまいになったので、岩形氏の身の上に就《つ》いては、それだけの事実しか上っていない。
「……よろしい……」
 と私はうなずいた。そうして言葉を改めてボーイに問うた。
「それではこの紳士が、ホテルへ帰るとすぐに自分で鍵をかけて寝たのは昨夜《ゆうべ》が初めてなんだな」
「そうです。だから僕も直ぐに寝ちゃったんです」
 と云いながらボーイは又、凝然《じっ》とうなだれた。その顔を覗き込むようにして私は半歩ばかり近づいた。
「そうではあるまい。お前は昨夜《ゆうべ》、この室《へや》へ来て、鍵がかかっているのを見た帰りがけに、一人の洋装をした日本人の女が中から出て来るのを見たろう。そうしてその女とお前は、あの廊下で立って話をしたろう。その女の靴の痕《あと》と、お前の新しいゴム底の靴の跡《あと》とがハッキリと残っているのだ……嘘を云うと承知せぬぞ」
 ボーイは殆んど雷に打たれたように、うしろの方へ辷《すべ》り倒れかけた。それをやっと踏み止まって真青になったまま助けを乞うように私を見上げたが、その唇は物を云う事が出来なかった。そうして中気《ちゅうき》病みのようにわななく手を左のポケットに突込んで、新しい手の切れるような二十円札を一枚、私の前に差し出した。
 私は受け取って裏表を改めながら問うた。
「お前はこれをその女に貰って口止《くちどめ》をされたんだろう……妾《わたし》がここへ来た事を誰にも云ってくれるな……と云って……」
 ボーイは頭をぎくぎくと左右に振った。
「……ち……違います。そ……それを玄関で……も……貰っ……て……」
「……ウン……そうか。そうして岩形さんの室《へや》まで案内したんだな……誰にもわからないように……」
 ボーイは一つうなずいたと思うと、そのまま頭を上げなかった。ウーンと云って引っくり返ってしまった。
 ボーイが杉川医師の応急手当を受けて室《へや》を運び出されると、私は直ぐに金丸刑事を呼んで、ボーイが貰った二十円|札《さつ》を東洋銀行に持って行かせた。そうしてもし札の番号が控えてあるならば、この札が一昨日《おととい》の午後、岩形氏に支払ったものかどうか調べて来るように……そのほか岩形氏の身辺について出来るだけ細大洩らさず聞き込んで来るように命じた。
 それから鑑識課の仕事を一応聞き取った私は、やっと隣の室《へや》に這入《はい》って、熱海検事以下数名立会の上で、もう一度岩形氏の変死体を検査する段取りになった
 その検査の結果は大要|左《さ》の通りである。むろんこの記述は前の記述と重複するところが少なくないのであるが、この紳士の死状、その他の外表的徴候は、ずっと後《のち》までもこの事件と、呉井嬢次と名乗る怪少年に関する重大な秘密の扉を、順々に開いて行く鍵になっているのだから、念のために記憶に残っている中《うち》で必要と認める全部を、初めから繰返して箇条書にしておく。その中《うち》でも特に注意を要する諸点(中には私が何の気も付かずに見のがしていて、あとで大失策を演じてから、やっと気が付いたようなデリケートの事実もある)には一々黒点を施して、これを参考にして行けば岩形氏の変死に関する秘密が、裏から裏へと解けて行くようにしておいた。

   岩形氏の死状[#ゴシック体]

 ◆屍体が発見された場所 東京駅ステーション・ホテル第十四号特別寝室。
 ◆死亡推定時間 大正七年十月十四日午前零時前後。
 ◆屍体発見当時の室内の状況 電燈は点けたまま。窓も明け放したまま[#「窓も明け放したまま」に傍点]であるが、そこから何者かが出入りした形跡は無い。ただ窓枠の上下際に岩形氏の泥の指痕《ゆびあと》が附着しているのみ。なお、スチーム暖房は止めてある。
 ◆屍体の外見状況 帽子は栓をした小瓶や注射器と一緒に、枕元に正しく置いてある。そうして泥靴を穿いて、右手の袖口を泥まみれにした外套と上衣を着て膝の処を左右とも泥だらけにしたズボンを穿いて[#「右手の袖口を」から「ズボンを穿いて」まで傍点]、南を枕にして、左手を下に[#「左手を下に」に傍点]敷いた西向きに横臥し、眼を一ぱいに見開いて、窓の外を凝視したまま[#「窓の外を凝視したまま」に傍点]死んでいる。そのワイシャツと、その下のラクダの襯衣《シャツ》は両方とも、同じ左腕[#「左腕」に傍点]上膊部を二枚重ねて横に三寸程|鋏様《はさみよう》のもので截《き》り裂いてあって、そこから注射をした痕は、絆創膏《ばんそうこう》を貼ってないために、淡《うす》い血と淋巴《りんぱ》液が襯衣《シャツ》の裏面に粘り付いている。

   容貌と体格[#ゴシック体]

 ◆容貌 蒙古人種《モンゴリアン》系の大きな顔で、赤味がかった頭髪はまだ左程《さほど》に禿《は》げていず、全体に醜くはないが、好男子という程でもない。しかしどことなくノッペリしたところは貴族的で婦人に敬愛されそうな顔立ちである。かなり高い顳※[#「※」は「需+頁」、第3水準1−94−6、61−10]骨《しょうじゅこつ》と、薄い眉とは犯罪性をあらわし、狭く尖《とが》った鼻の頭と、稍《やや》角張った大きな顎《あご》は敗け惜しみの強い性格をあらわしているが、小さな分厚い唇はどちらかといえば考えの浅い、お人好しの性格を見せている。これに反して広い平ったい額は疑い深い、もしくは底意地の強い才智の働きを表明し、耳は又、女性的で温順《おとな》しい恰好をしているなぞ、随分矛盾した特徴を持った顔で、全体を綜合した印象から云っても、ちょっとどんな性格か要領の得難《えにく》い表情と云わねばならぬ。ただ、眼だけは誰が見ても酒精《アルコール》中毒で、白眼が黄色く濁って、暴風雨の後《のち》の海を見るような気味のわるい光りを放っている。
 ◆体格 身長五尺六寸余。酒肥りにデブデブ肥っていて体量も二十貫位ありそうに見える。顔も手足も真黒く日に焼けているが地肌は酒で色付いている胸部を除いては、白い方である。又、昔はかなり烈しい労働に従事したらしく手足の皮が厚くなっているし、腕力も相当にあるらしく、左の腕に一度小さな刺青《いれずみ》をして焼き消した痕がある。しかし、それがずっと前に東京市内で流行した不良少年用の花型のものか、外国の無頼漢用の骸骨《スケレトン》式のものか、それとも普通の恋愛沙汰から来たハート型に頭文字《イニシアル》の組合わせ式のものかというような事は、ちょっと判別出来なかった。

   服装[#ゴシック体]

 ◆服装 外套は焦茶色の本駱駝《ほんらくだ》で、裏は鉄色の繻子《しゅす》。襟《えり》は上等の川獺《かわうそ》。服は紺無地《こんむじ》羅紗《らしゃ》背広《せびろ》の三つ揃いで、裏は外套同様。仕立屋の名前はサンフランシスコ・モーリー洋服店と入っている。持主の頭文字《イニシアル》は初めから縫い付けてないらしく引き剥がした痕跡もない。外套、上衣とも襟の処には葉巻の芳香と、熟柿《じゅくし》臭い臭気とが沁《し》み込んでプンプンと匂っている。帯革は締めず。青い革のズボン吊り。本麻、赤縞ワイシャツに猫目石のカフスボタン。三つボタンは十八金。襟飾《ネクタイ》は最近
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