の事に、自分一人を殺して、妻子の生命《いのち》だけでも救い止めたい決心を致しまして、小生の所持金の全部を妻に与え、残余を以て一身の後始末を致し、万事を貴下に御依頼申上ぐる決意を固めまして、やっと只今その決心の大部分を実行し終ったところであります。
あとはこの遺書を旧友藤波弁護士に依託して後《のち》、このホテルを脱け出して駅前の広場のまん中にある立木の根方に腰をかけまして、酔っ払いの真似をしながら、この二枚の名刺を埋めて帰れば万事を終る手筈になっておるのであります。
狭山九郎太氏よ。
かくの如き無恥、無徳、ほとんど一片の同情にだも価しない売国奴の小生が、正義、法律の執行官たる貴下に対して、かような厚かましい事を御依頼申上ぐる資格がない事は、明かに自覚致しております次第であります。
しかしながら貴下よ……。
叶いまする事ならば、小生と、小生の妻子とを同一視なさらないようにお願い致したいのが小生の最後の切ない希望なのであります。
小生の妻も、妻と生写しの姿と声とを有しております伜の嬢次も共に、純正なる日本民族の血と肉と精神とを保有致しておるに相違ない事を貴下の前に誓わして頂きたいのであります。
伜の嬢次がコンドルに誘拐されましたのは四歳の時だったそうでありますが、その容貌はもとより皮膚の色から、髪毛《かみげ》の生え際に至るまで妻と生き写しでありまして、少し大きくなりましてからは声までも妻の声と間違いましたそうで、ただ耳だけが小生のと同じ恰好をしていた事を記憶しております。今はどれ位の背丈になっておりますか存じませぬが、ちょうど十五歳になっております訳で、小生が只今|宿酔《しゅくすい》から醒めまして、死期の近い事を覚悟致しております気持ちの、異様に澄み切った遥か遥か彼方に、その嬢次の姿が立っておりまして、まだ見ぬ父母を恋い慕いつつ、日本の空をあこがれております心が、ハッキリと感じられておるのであります。
けれども、それと同時に彼《か》の恐るべき禿鷲《コンドル》の爪が、その愛児嬢次を虚空に掴みつつ、日本に飛んで来まして、その恐ろしい翼で、妻ノブ子を羽搏《はう》とうとしている事実がありありと感じられておるのであります。聞くところに依ればコンドルは目下東部|亜米利加《アメリカ》に於て、欧洲各国からアブレて参りました曲馬師連を集め、部下の中《うち》でもこの方面に心得のあるものをこれに配合してバード・ストーン曲馬団なるものを組織し、各地で興行をして大|喝采《かっさい》を博しており、近く東洋方面にも興行に出かけるらしい噂を承わっております。これは別にコンドルから直接聞いた訳ではありませぬので、特にコンドルが小生にだけ隠しておる計画ではないかと考えられるのでありますが、しかし、いずれにしても小生はこの噂の実現の真実性を信じて疑わないのであります。
この小生の死後の敵コンドル事、ウルスター・ゴンクールは前にも申述べました通り、風采の堂々たる好紳士で、表面では口癖のように正義人道を高潮しておりますが、実はアリゾナ生れの兇悍《きょうかん》冷血なる無頼漢で、その強烈なる意志と胆力とによって、不断に部下を畏伏させ、戦慄させておるものであります。彼は酒を飲まず、煙草を用いず、語学は元来不得手の方で、仏、伊の二箇国語を心得ておりますが、日、支、朝鮮、印度方面の東洋語は全然通じませぬ。近頃日本語の研究を初めておるとの事ですが、まだ日常の挨拶程度だそうで、平生語学の達者なものを秘書にして用を弁じておりますので日本文字なぞも無論読めません。……にも拘わらず彼は極度の好色漢でありまして、この方面に独特の怪手腕を持っており、言語の通じないままに各人種の情婦を持っておるのみならず、如何なる良家の夫人、令嬢でも、一度狙ったら最後、必ず自家薬籠中のものとして終《しま》う手腕に至っては団員の斉《ひと》しく舌を巻いておるところであります。
その他の特徴としては射撃の名手であると同時に、拳闘の重体量選手となったことがあります。殊にその精力の絶倫さは想像を超越したものがありますので、一日平均四時間の睡眠を摂《と》るのみ。二昼夜の間に百余|哩《マイル》を徒走した事があると聞いております。その部下は大抵|露西亜《ロシア》人、猶太《ユダヤ》人、支那人、印度《インド》人、伊太利《イタリー》人、その他、ケンタッキー、アルカンサス等の南部|亜米利加《アメリカ》人で日本人は極く少数しか居りません。いずれも、欧米各地で持てあまされた、警察なぞを物とも思わぬ無鉄砲者の中から、世間を欺くに足る相当の技術を持った者という難かしい条件で、金に飽かして選《よ》り集めたもので、彼は巧みにこれを操縦して事業を遂行しております。殊に団体内の制裁には、前にも申します通り、その違反者に同情なき異国人を使って容赦なく実行させるようにしておりますから、団結の鞏固《きょうこ》な事は非常であります。その仕事の如何に敏活なものがありますかは、小生がM男爵の手に暗号を渡して後《のち》、一夜も経たない中《うち》に小生の死刑を宣告し、一週間も経たないうちに応急的な暗号の鍵を送って、妻ノブ子の死刑を宣告して来たのを御覧になってもお察し出来る事と思います。
最後に今|一言《いちごん》させて頂きます。小生は小生の妻子に対する貴下の御庇護に関する私的御費用の一端として、藤波弁護士の手に保管中の二万円也を貴下に捧呈させて頂きたいのであります。但し、清廉なる貴下は、或《あるい》はこの金を不浄の金としてお受取りにならないかも知れませぬが、しかし貴下よ。由来国際間の事は、人道と法律とを超越したものであります。小生が人類の敵たる秘密結社に反逆を企て、その秘密を発《あば》く事が、国家的立場より見て許されるものでありますならば、小生がこの金をJ・I・Cから奪ったとしましても決して罪悪ではありますまい。況《いわ》んやこの金は日本人の財産を奪ったものではありません。日本を不利の地位に陥れむとするウオル街の全権代表者より個人的に適法の手続《てつづき》を以て小生の手に渡り、合法的に小生の所有となったものでありますから、仮令《たとえ》小生が相手の望み通りの仕事を遂行しなくとも、先方から返還を要求すべき性質のものではありません。況《いわ》んやこの金の代償として要求されている仕事が不正であるに於ては尚更《なおさら》の事であります。小生の妻にはこのような道理を説明してもわかるまいと思いましたから他の意味の金と云って取らせておきましたが、貴下には正直に所信を告白致します。願わくば国家のため、又は小生の妻子のため、枉《ま》げて御受領賜わりまするよう伏願致します。
狭山氏よ。貴下にお願い申上げたい事、又はお知らせ申上げたいことはこれで終りました。
小生はかようにして「非国民」もしくは「無頼漢」なる汚名の下に唯一人淋しく葬られなければならぬ運命に立ち至りました。これは小生が自ら求めましたところで、天地の間、どこの何人《なんぴと》を怨みようもありませぬ。
でありますからして小生は仮令《たとえ》貴下がこの遺書を一笑に附して小生の希望をお容《い》れにならず、あの金は没収、もしくは寄附等となして、小生の妻子の保護は結局小生の妻子の勝手にお任せ下さる事に相成りましても小生は決して貴下をお怨み申上ぐる者ではありません。それは当然の御処置に相違ないので、それ以上の事をお願い申上ぐるのは分を超えておるからであります。
しかし、その中に唯一つ、只今より申述ぶる最後のお頼みばかりは、如何にしても思い切る事が出来ません。而《そ》して貴下が小生のためにこの唯一事までもお拒みになるほど、罪人に対して厳酷なお方とは想像し得ないのであります。
そのお願いと申しますのは、外《ほか》でもありませぬ。
もし貴下が他日どうか致した機会に小生の妻子を御覧になるような事がありましたならば、何卒|左《さ》の一事を貴下のお口からお申聞かせ賜わりたいのであります。
「お前の夫、お前の父は非国民の無頼漢であった。けれどもその最後は君国の事を思い、お前達の身の上を悲しんで死んだ。彼は良心の曙光を認めつつ死んだのだ」
……と……。
最後に貴下の御健康を祈らせて頂きます。 頓首 敬白[#「頓首 敬白」は地付き、地より3字アキ]
大正七年十月十三日午後七時半
本郷菊坂ホテルにて認《したた》め終る。
私は片仮名交りのギゴチない文章を横書にした、世にも読み難《にく》いこの遺書をとうとう読み終った。けれども暫くの間は行の末尾を凝視した切り顔を上げる事が出来なかった。
私はこれ程の信頼と尊敬とを受けた事は未だ曾《かつ》てなかったのである。
同時にこれ程の面目なさと恥ずかしさを感じた事も未だ曾てなかった。そうして又、これ程の大きな難事業を委託されたのも生れて初めてだったのである。
そうして又、同時に、これ程の純な気持ちを持った親子が、斯程《かほど》まで残虐な、異常な運命に飜弄されているのを見た事も、今日迄六十余年の生涯を通じてなかったのである。
泣きも笑いも出来ないとはこの時の私の気持であったろう。
けれども、やがてそのようなあらゆる感情が雲のように湧き起るのをやっと押し鎮めて、平生の理智を取り返して来ると、私は眼の前に面《おもて》を伏せている少年の姿に、驚異の眼を注がない訳に行かなかった。
この少年は極めて無邪気な方法で、岩形氏……否、志村浩太郎氏の屍体の秘密をどん底まで透視している。警視庁で鬼と謳われた私の手落を、二年後の今日に至って何の苦もなく看破している。……しかもその証拠は儼《げん》として動かす事が出来ない。現在私の手中にある。
……この少年は果してそのような古今の名探偵に比すべき頭脳を、今から備え持っているのであろうか……。
……それともこれが世にいう親子の因縁……もしくは目に見えぬ魂の引き合わせとでもいうものであろうか。
かよう考えて来ると私はもう、自分の考えに堪えられなくなって、思わず遺書をパタリと閉じて、机の上に置いた。居住居《いずまい》を正して少年に問いかけた。
「……成る程……わかりました。しかし君は今しがた、お母さんが何者にか殺されたと云いましたね」
「ハイ……」
少年は依然として淋しそうな顔を上げた。その睫は涙のために乱れていた。しかし言葉はハッキリとして落ち着いていた。
「ハイ……申しました」
「……その事実はどうして解ったのです」
「だって……生きている筈がないんですもの……」
と云ううちに少年は又も力なくうなだれてしまった。
「……ハハア……それじゃ、お母さんからのお消息《たより》が、それから後《のち》ちっともないのですね」
少年はうなずいた。
「……成程《なるほど》。君が曲馬団に居るとすれば、お母さんが何等かの方法で会いに来ない筈はない。すくなくとも無事で居る事を君に知らせない筈はない。それが何の頼りもないところを見れば誰かの手にかかって殺されておられるに違いない。しかも誰かの手にかかって殺されているとすれば、その手はW・ゴンクールの手に違いない……という三段論法が成立する訳ですね」
少年は前よりも強くうなずいた。どうやら唇を噛んでいるらしい態度である。
「……成程……それでその復讐をするために僕の手伝いを求めに来たのですね」
少年は微かにうなずいた。又もハンカチを顔に当てて肩を窄《すぼ》めた。
私は、その姿を見ると堪《た》まらなくなって、机の上に両手を支えた。頭を幾度も幾度も下げて謝罪《あやま》った。
「……済まない……済みません。僕は君の御両親ばかりでなく君に対しても会わせる顔がないのです。僕は君等親子にこれ程の信頼を受ける価値はない人間です。僕は世間で云うような名探偵でも何でもありませぬ。凡クラな、トンチンカンなヘボ探偵に過ぎないのです。それは君にだって解っているでしょう。……それだのに、こんなにまで信頼を受けてはトテモ僕はたまらないのです……こんな、老耄《おいぼれ》のヘボ探偵を、どうして君がそんな
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