行くうちに、忘れようとして忘れられぬヘリオトロープの芳香が、微かにその間から湧き出して来た。
 その瞬間に私ははっと職業意識に帰った。一しきり胸を躍らした。あたりを見まわした。そうしてその聖書を手早く外套のポケットに辷り込まして、何喰わぬ顔で椅子に帰っているところへ、やっとボーイが珈琲を持って上って来た。
 そのボーイに五十銭札を握らして燐寸《マッチ》を貰って敷島に火を点《つ》けながら、何でもないからかい半分の調子で色々と質問をしてみると、案外記憶のいい奴で、殊に岩形氏には多分のチップを貰っているらしく、その一挙一動にまでも眼を付けて記憶していたのは、時にとっての拾い物であった。その話を綜合するとかようである。
 たしか昨夜《ゆうべ》の九時前後と思われる頃であった。黒い大きな帽子を冠って、濃い藍色の洋服を着た日本婦人で、二十五から三十位の間に見える素敵な別嬪《べっぴん》がやって来て、現在私が腰かけているこの卓子《テーブル》を借り切って、小さな本をひねくりながら折々窓の外を見て、人を待っている風情であった。その時はちょうど客足が途絶えていたが、それでも二三組客が居て、皆その別嬪の方を見てひそひそ話をしたり笑ったりしていた。この家《うち》の料理番《コック》で好色漢《すけべえ》の支那人が、別嬪と聞いてわざわざ覗きに上って来た位、美しいのであった。
 すると、それから十四五分ばかりして一人の色の黒い、大きな男が、濃い茶色の外套に緑色の帽子を冠って、両手をポケットに突込んだまま、跫音《あしおと》高く階段を上って来た。この男は一週間ばかり前からちょいちょい此店《ここ》へ来て飯を喰ったり酒を飲んだりする男で、お金もたんまり持っているらしく、此店《ここ》に来る客人の中《うち》では上々の部であった。その男は女を見ると横柄にうなずいて向側の椅子に腰を卸《おろ》して大きな声でボーイに命じた。
「豆スープとハムエッグスと黒|麺麭《パン》と、珈琲にウイスキーを入れて持って来い」
 女は何も喰べずに、男の様子をまじまじと見ていた。それから、やがて小さな書物を男の眼の前に差し付けて、顔をずっと近付けながら、何かひそひそと話していたようであったが、紫色のハンカチを時々眼に当てて泣いているようにも見えた。これに対して男も時々眼をぎょろ付かせて女を睨みながら、暗い顔をして耳を傾けていた。首肯《うなず》いたり、溜息をしたりしているようにも見えた。
 ところがそのうちにボーイがウイスキーを入れた珈琲を持って行くと、その男はどうした途端《はずみ》か卓子《テーブル》の上に取り落したので、慌てて外套のポケットから白いハンカチを出して押えた。それを女は引き取って綺麗に拭き上げて、よく絞ってから男に渡すと、男はそれを外套のポケットに入れた。その時に女は、自分の持っている紫のハンカチを男の方に差し出したが、男はそれを受け取ってちょっと指の先と口の周囲《まわり》を拭いたまま、すぐに女に返そうとすると女は……要《い》らない……というような手真似をしたので、男はそれを左のポケットにしまい込んだ。そうして急に大きな声を出して、
「おい。ボーイ。ウイスキーだウイスキーだ」
 と呶鳴《どな》った。女はやはり悲しそうに男の顔を見ていた。
 ところでここいらまではボーイも客人もちょいちょい二人の様子を見ていたが、間もなく大勢の客がどかどかと這入って来て酒を呑んで騒ぎ出したので、二人の存在がそれっきり忘れられてしまった。尤もその間の二十分間ばかりというもの、男と女はひそひそと話ばかりしていたが、しまいに男は又かなり酔っ払ったらしい声で呶鳴り出した。
「……ええうるさいッ。最早《もう》話はわかっているじゃないか。子供を思い切るという位、理窟のわかる貴様が、どうしてこれがわからないんだ。貴様は貴様の仕事をする。俺は俺のいいようにする。どこへ行こうと、何をしようと俺の勝手だ。貴様の知った事じゃない。黙っていろ」
 この声は二階中に響き渡って、客人の大部分に聴き耳を立てさせた。その口調の中には、こんなカフェーの中に不似合な、何ともいえない涙ぐましい響があったので、一時カフェーの中がしいーんとした位であった。一方に女は男からそう云われると、身も世もあらぬ体《てい》で、鼻紙で顔を押えて泣き声を忍んでいる様子であったが、そのまましゃくり上げながら立ち上って、しおしおと階段を降りて行った。
 こんな場面を見せ付けられたカフェーの中はすっかり白気《しらけ》渡ってしまった。そうして階段を降りて行く女の姿を見送った人々は、直ぐに視線を転じて、あとに残った男の方を凝視するのであったが、男はそんな事に気も付かない体《てい》で、椅子の背に横すじかいに凭《もた》れかかったまま女の出て行ったあとをじいーっと見詰めているようであった。
 しかし、それは大して長い時間ではなかった。やがて感慨深そうに眼を閉じて、何やら二三分間考えていた男は、急に高らかに笑い出しながら眼を開《あ》いて、そこいらを見廻した。
「アハハハハ。馬鹿野郎。何を考えているんだ。考えたって何になるんだ。アハハハハ。おい。ボーイ。酒だ酒だ。ウイスキーでもアブサンでも、ジンでも、キュラソーでも何でも持って来い。みんな飲んでやる。ねえ諸君……」
 と叫びながら今度は近い処に固まっていた五六人連れの学生にとろんとした眼を向けた。
「ねえ諸君……諸君は学生だ。前途有望だ。理想境《ユートピア》に向って驀進《ばくしん》するんだ。……吾輩もカフェー・ユートピアに居る。即ち酒だ。酒が即ち吾輩の理想境《ユートピア》なんだ。あとは睡る事。永遠に酔い永遠に眠る。これが吾輩のユートピアだ。アッハッハッハッ。どうだね諸君……」
「賛成ですね」
「うむ。有り難い。それでは諸君一つ吾輩の健康を祝してくれ給え。甚だ失敬だが、この瓶を一本寄贈するから……」
 と云ううちに、ボーイが持って来た二三本の酒の中から、シャンパンを一本抜き出して、学生連が取り巻いている机のまん中にどしんと置いた。そうして二十円札を一枚ボーイの銀盆の上に投げ出すと、並んだ料理は見向きもしないで、階段をよろめき降りて行った。
「いま迄にそんな事をした事があるかね……その紳士は……」
 と私はすこし真面目になって訊いた。ボーイは何かしらにこにこして、私の顔を見い見い、態度と語調を換えた。
「いいえ。ございません。いつもたった一人でちびりちびりやって、黙って窓の外を見たり、考え込んだり、新聞を読んだり……」
「……一寸待ってくれ……それはどんな新聞かね」
「英語の新聞です。日本のはなかったようです。二三度忘れて行かれましたが……」
「その忘れた新聞が残っていないだろうか」
「なくなっちまいました。料理番《コック》が毎日新聞紙を使いますので……フライパンを拭いたり何かして、あとを焚付《たきつけ》にしてしまいますので……」
「外国で発行したものかどうかお前には解らないだろうなあ」
「わかりません」
「西洋のポンチ絵が載っていやしなかったかい」
「さあ。気が付きませんでした。すぐにくしゃくしゃにして終《しま》いますので……」
「……ふうむ……惜しいな……ところで、その紳士には時々連れでもあったかね」
「いいえ。昨夜《ゆんべ》の女の方が初めてだったと思います」
「昨夜《ゆんべ》その紳士が来た時には、客が少なかったと云ったね」
「申しました」
「幾組位、客があったかね」
「ええと。あの時は隣の室に一組と、こっちの室に一組と……それっきりです」
「合わせて三組だね」
「そうです」
「そのこっちの室に居た客人は学生かね」
「そうです。けれども留学生です」
「……ふうん。留学生。間違いないね」
「間違いこありやせん。早稲田の帽子を冠っておりましたけど、大丈夫日本人じゃありません」
「どこの卓子《テーブル》に居たね」
「あすこです」
 とボーイは料理部屋から上って来る裏口の階段を指した。
「何人居たね」
「……えーと。そうです。三人です」
「どんな風体《ふうてい》の奴かね」[#底本では受けのカギカッコの前に句点あり]
「失敬な奴でした。其奴《そいつ》は僕が……私がここのお客様に持って来ようとするウイスキー入りの珈琲《コーヒー》を捕まえて片言で……こっちが先だ。それはこっちへ渡せ……と云うのです。ウイスキー入りの珈琲は一つしきゃ通っていないのに、そんな事を云うんです。けれども僕は我慢して頭を下げながら……へい。只今……と云ってこっちへ持って来ちゃったんです」
「顔は記憶《おぼ》えているかね」
「みんなは知りませんが、そう云った奴の面付《つらつき》だけは記憶《おぼ》えています。色の黒い、痘痕《あばた》のある、瘠《や》せこけた拙《まず》い面でした。朝鮮人かも知れません」
「ほかに特徴はなかったかね」
「さあ。気が付きませんでした。薄汚ない茶色の襟巻をしておりましたが」
「着物は……」
「三人とも長いマントを着ておりましたから解りません」
「下駄を穿《は》いてたかね」
「靴だったようです」
「フーム。元来この店には朝鮮人が来るかね」
「よっぽど金持か何かでないと来ません。留学生はみんな吝《けち》ですから……女が居れば別ですけど……」
「ふふん。その連中の註文は……」
「珈琲だけです。何でも洋装の女より十分間ばかり前に来て、三人でちびちび珈琲を舐《なめ》ていたようです。客が多ければ追い返してやるんでしたけど……それから女が出て行くと直ぐあとから引き上げて行きました。癪に障《さわ》るから後姿を睨み付けてやりましたら、その痘痕面《あばたづら》の奴がひょいと降り口で振り返った拍子に私の顔を見ると、慌てて逃げるように降りて行きました」
「ハハハハ。よかったね。それじゃもう一つ聞くが、昨夜《ゆうべ》の色の黒い紳士が、何か女から貰ったものはないかね。紫色のハンカチの外に……」
「別に気が付きませんでした……あ。そうそう、女が立って行った後に残っていた、小ちゃな白いものをポケットに入れて行きました」
「どれ位の……」
「これ位の……」
 と指でその大きさを示した。それは丁度名刺半分位の大きさであった。
「もう御誂《おあつら》えは……」
「有り難う……ない……」
 と立ち上りながら私は一円紙幣を一枚と五十銭札を一枚ボーイの手に握らした。ボーイは躊躇して手を半分開いたまま私の顔を見上げた。
「……これは……頂き過ぎますが……」
「……いいじゃないか、それ位……」
「だって……だって……」
 とにやにや笑いながらボーイは口籠《くちご》もった。
「……何だ……」
「だって……貴方は狭山さんでしょう。警視庁の……」
「えっ……。知っていたのか」
「……へえ……新聞でよくお顔を……」
「アッハッハッハッ。そうかそうか。それじゃチップが安過ぎる……」
「もう結構です。又どうぞ……」
「アッハッハッハッ。左様《さよう》なら……」
「左様なら……」
 ボーイは逃げるように裏階段を駈け降りて行った。恐ろしく気の利いた奴だ。
 往来に出てから時計を出してみると十一時二十分過ぎである。今まで電話がかからぬところを見ると紅海丸には異状がなかったと見える。機敏な志免警部は最早第二の処置に取りかかっているであろう。
「……二人は夫婦だ。子供の事を口にしていたと云うから……」
 と私は独言《ひとりごと》を云った。そして考えを散らさないように外套の襟を立てて、地面《じびた》を見詰めながら歩き出した。

 私の行くべき道は、ここで明かに二つに岐《わか》れてしまった。実に面目次第もないが事実の前には頭が上がらない。
 ……一つは女を犯人と認めて行く道……。
 ……もう一つは女を犯人と認めないで行く道……。
 女を犯人と認める理由は、最前ホテルで説明した通りである。殊に東洋銀行から大金を引き出しながら落ち着いて出て行ったところ……又紙幣の包みを金と覚《さと》られぬように、若い車夫を雇ったところなぞはなかなか一筋縄で行く女でない。況《いわ》んやステーション・ホテルでボーイに金を呉れて十四号室へ案
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