目下のところこの毒物が何であるかは明言出来ない。尚《なお》、また、日本でこの種の毒物が使用された事実をまだ聞かない事と、高等な医学と有機化学の知識と、優秀な看護婦程度の経験が、この毒物の製造と応用に必要な点から推して、この女が容易ならぬ学識手腕を持っているか、又は女の背後に意外に深刻な魔手が隠れて、女を操《あやつ》っているのではないか……という仮定が成立しそうに思えるが、しかしこれは単に仮定であって軽々しくは断定出来ない。何故かと云うと、この女の犯罪行為の中《うち》には如何にも素人じみた失策が幾つも在るので、この女を使用してこんな犯罪を遂行させた人間がもしいるとすれば、それは殆んど女と同等の素人でなければならぬとも考えられるからである。だからこの場合は、全然毒殺の経験を持たない女が、この紳士に対して殺意を持っているうちに、このような毒物を手に入れたので、俄《にわ》かに思い付いた犯罪と見るのが、至当ではないかと考えられる。
 ……ところでその女の失策というのは、今数えて見ると四つばかりある。
 その第一は自分の手に、紫のアニリン染料が附いているのを気付かないで、紳士の濡れたハンカチを取ろ
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