ゅう》張りの大トランクがあって表に白い文字でGEORGE・CRAYと書いてあるが、その鍵の処には、白い小さい紙布《かみきれ》が挟んであるようである。近付いてよく見ると、それは嬢次少年自身の名刺で、その裏面には鉛筆で羅馬《ローマ》綴りの走り書きにしてある。
「この中の黒い鞄は頂戴致しました。御心配かけました」

 …………………………………………………………………私はどこをどう歩いて来たのか丸で記憶しない。いつこのカフェー・ユートピアの二階へ上り込んだのか……どうして今、眼の前に並んでいる四種の料理……「豆スープ」と「黒|麺麭《パン》」と「ハムエッグス」と「珈琲《コーヒー》」を誂《あつら》えたのか……一つも頭の中に残っていなかった。
 窓の外を覗くと、往来には夕暗《ゆうやみ》の色が仄《ほの》かに漂い初《そ》めている。向家《むかい》の瓦屋根の上を行く茶色の雲に反映する光りを見ると、太陽は殆んど地平線下に沈みかけているようである。頭の上の右手には花電燈がほっかりと点《つ》いていて、周囲には大勢の客が笑いさざめいている。中には曲馬団の帰りらしい学生の一組も居て、頻《しき》りに高声で話をしている
前へ 次へ
全471ページ中287ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング