ても私が先に面会致しまして、事務の報告を致さねばならぬ筈なのに、これはどうした間違いかと存じまして、判断に苦しみました揚句《あげく》、至急に電話をかけて樫尾を当教会の地下室に呼び寄せて相談致しましたところ、樫尾は暫く考えました後《のち》に、
「この命令に背かれましたならば貴女《あなた》の生命《いのち》が危ないでしょう。しかし……しかし」
となおも二三度口籠もって躊躇致しましたが、やがて思い切った体《てい》で私の耳に口を寄せまして、あたりに人も居ないのに声をひそめまして、
「中村文吉氏の本名は志村浩太郎氏です。志村君は貴女が当教会《ここ》に居られる事を出発直前に耳にしておられる筈です。……左様《さよう》なら……」
と云い棄て教会の外へ駈け出し、そのまま自動車に飛び乗って姿を消してしまいました。
妾は余りの事に驚き呆れまして、暫くは教会の門前に立ちつくし、茫然とあとを見送っておりましたが、それにしてもこの十数年このかた打ち絶えておりました夫の消息を初めて聞き知りました妾の身として、たとい、J・I・Cの厳命でございましょうとも、何しにこのまま立ち去る事が出来ましょう。ましてその命令の意
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