《うち》で注意を要するものは、この外《ほか》に一個もない。但し押入れの中のトランクもスートケースも、その中に投げ込んである毛布、長靴、その他のござござも皆、最近に買ったらしい新品である事と、状袋《じょうぶくろ》、レターペーパー等という書信用の品物を一つも持たず、ホテル備え付の分を使用した模様もない事が、注目に価する位のものである。
 ◆備考 (二)遺書、もしくはそれに類するものはどこにも発見されなかった[#「遺書」から「発見されなかった」まで傍点]。

 私はこれだけの事実を極度の注意を払って検査した上で、もう一度、岩形氏の枕元に在る注射器と茶色の小瓶と、ポケットから出た小鋏とを更《かわ》る代《がわ》る取り上げてみた。そうしてもう一度、内部のアルコールらしい臭いを嗅いでみたり、光線に透かしてみたり、硝子《ガラス》の栓を瓶と合わせてみたり、又は鋏をきちきち合わせてみたりなぞ、無用の努力を五六分間繰返しながら、内心では色々と推理を組み立てては壊し、判断してみては考え直してみた。しかし何度繰返して考え直して見ても、私の推理は同じ鉄壁にぶつかって一歩も進めなくなるばかりであった。この推理観察の金的《きんてき》ともいうべきこの瓶と注射器と、鉄に附着している指紋が、岩形氏以外の誰のものでもない事と、その附着した位置や、力の入り工合が如何にも自然で、あとから故意にくっ付けたものではないという一同の意見が一致している以上、ほかの情況証拠がいくら他殺らしく見えていても、他殺と断言する事は不可能であった。もっと有力な他殺の形跡が発見されない限りは……であった。況《いわ》んやこの屍体を取り巻く幾多の情況が、他殺とも見え、自殺とも見えるに於てをやであった……。
 私は心の底で人知れず溜息をしいしい三つの品物を岩形氏の枕元に投げ出した。……こんな掴みどころのない、得体のわからない変死体に出会《でくわ》した事は、実に、生れて初めてだったからである。これだけ腕を揃えた連中が判断に苦しんだのは尤も至極だと思ったからである。
 読者諸君ももう既に気付いていられるであろう。見たところ岩形氏の死状はどうしても自殺と考えるのが至当らしいという事を……。すなわち岩形氏は、昨夜誰も居ないうちに自分で外套と上衣を脱いで、自分の鋏でシャツを切り破って、そこから自分の注射器でアルコール臭を有する毒液の注射をして、それから寒くなったのでもう一度上衣と外套を引っかけて、寝台の上に転がったもの……と見る事が出来るので、注射の個所を消毒した形跡もなく、絆創膏を貼った痕もないところ……又は帽子と注射器を枕元に正しく置いて絶息しているところなぞを見たら、ほかの条件がどんなものであろうともとりあえず自殺と決定したくなるであろうことを……。
 しかしこの時の私の頭にはどうしてもこの決定が閃《ひら》めかなかったから不思議であった。しかも、それは私がこの十四号室に這入る前に発見した、彼女の靴跡が先入主になっていたせいでもなければ、岩形氏が手を洗い浄めないまま注射をした……もしくは遺書を認《したた》める間もなく、衣服を改める隙《ひま》もなく、腕をまくる隙《すき》もない程急迫な自殺をした……という事が、私を疑い迷わせたからでもなかった。それよりももっと直接な、大きな疑問……すなわち現在眼の前に横わって、冷たく強直してしまっている岩形氏の屍体の姿そのもの[#「屍体の姿そのもの」に傍点]が、今まで見た事のない、何とも説明の出来ない異常な感じをあらわしている……その異常な感じそのもの[#「異常な感じそのもの」に傍点]が、それをじっと見下ろしている私に向って何事かを訴えるべく、無言のまま呼びかけているのではないか……というような疑問がちらちらと私の頭の中に閃めいて仕様がないからであった。
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……もっと私の屍体を研究して下さい。もっとよく調べて下さい。私の死んだ原因は、普通の人間には絶対に解りません。ただ貴方だけにしか解らないようになっているのです。……私は貴方がお出でになるのを待っていたのです。私のこの異常な死方《しにかた》の裏面に隠されている、或る驚くべく、恐るべき秘密を看破して下さるのを一刻千秋の思いで待っていたのです。……私のこの異状な、不自然な、奇抜な死方《しにかた》をもっともっとよく研究して下さい。そうして私の死を無駄にしないようにして下さい。どうぞどうぞお願いします……。
[#ここで字下げ終わり]
 ……と身動きも出来ず、声も出せない憐れな姿のままに、刻一刻と私に呼びかけているのではないか……というような深刻な疑問が私の頭の中一ぱいに渦巻いて、どうしても屍体の側を離れることが出来なかったからであった。
 けれども遺憾ながらこの時の私の頭はこの疑問を解剖するだけの観察力と推理
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