氏が昼間のあいだどこで何をしているかというようなこともそれなりに問題にならないまんまで、おしまいになったので、岩形氏の身の上に就《つ》いては、それだけの事実しか上っていない。
「……よろしい……」
と私はうなずいた。そうして言葉を改めてボーイに問うた。
「それではこの紳士が、ホテルへ帰るとすぐに自分で鍵をかけて寝たのは昨夜《ゆうべ》が初めてなんだな」
「そうです。だから僕も直ぐに寝ちゃったんです」
と云いながらボーイは又、凝然《じっ》とうなだれた。その顔を覗き込むようにして私は半歩ばかり近づいた。
「そうではあるまい。お前は昨夜《ゆうべ》、この室《へや》へ来て、鍵がかかっているのを見た帰りがけに、一人の洋装をした日本人の女が中から出て来るのを見たろう。そうしてその女とお前は、あの廊下で立って話をしたろう。その女の靴の痕《あと》と、お前の新しいゴム底の靴の跡《あと》とがハッキリと残っているのだ……嘘を云うと承知せぬぞ」
ボーイは殆んど雷に打たれたように、うしろの方へ辷《すべ》り倒れかけた。それをやっと踏み止まって真青になったまま助けを乞うように私を見上げたが、その唇は物を云う事が出来なかった。そうして中気《ちゅうき》病みのようにわななく手を左のポケットに突込んで、新しい手の切れるような二十円札を一枚、私の前に差し出した。
私は受け取って裏表を改めながら問うた。
「お前はこれをその女に貰って口止《くちどめ》をされたんだろう……妾《わたし》がここへ来た事を誰にも云ってくれるな……と云って……」
ボーイは頭をぎくぎくと左右に振った。
「……ち……違います。そ……それを玄関で……も……貰っ……て……」
「……ウン……そうか。そうして岩形さんの室《へや》まで案内したんだな……誰にもわからないように……」
ボーイは一つうなずいたと思うと、そのまま頭を上げなかった。ウーンと云って引っくり返ってしまった。
ボーイが杉川医師の応急手当を受けて室《へや》を運び出されると、私は直ぐに金丸刑事を呼んで、ボーイが貰った二十円|札《さつ》を東洋銀行に持って行かせた。そうしてもし札の番号が控えてあるならば、この札が一昨日《おととい》の午後、岩形氏に支払ったものかどうか調べて来るように……そのほか岩形氏の身辺について出来るだけ細大洩らさず聞き込んで来るように命じた。
それから鑑識課の仕事を一応聞き取った私は、やっと隣の室《へや》に這入《はい》って、熱海検事以下数名立会の上で、もう一度岩形氏の変死体を検査する段取りになった
その検査の結果は大要|左《さ》の通りである。むろんこの記述は前の記述と重複するところが少なくないのであるが、この紳士の死状、その他の外表的徴候は、ずっと後《のち》までもこの事件と、呉井嬢次と名乗る怪少年に関する重大な秘密の扉を、順々に開いて行く鍵になっているのだから、念のために記憶に残っている中《うち》で必要と認める全部を、初めから繰返して箇条書にしておく。その中《うち》でも特に注意を要する諸点(中には私が何の気も付かずに見のがしていて、あとで大失策を演じてから、やっと気が付いたようなデリケートの事実もある)には一々黒点を施して、これを参考にして行けば岩形氏の変死に関する秘密が、裏から裏へと解けて行くようにしておいた。
岩形氏の死状[#ゴシック体]
◆屍体が発見された場所 東京駅ステーション・ホテル第十四号特別寝室。
◆死亡推定時間 大正七年十月十四日午前零時前後。
◆屍体発見当時の室内の状況 電燈は点けたまま。窓も明け放したまま[#「窓も明け放したまま」に傍点]であるが、そこから何者かが出入りした形跡は無い。ただ窓枠の上下際に岩形氏の泥の指痕《ゆびあと》が附着しているのみ。なお、スチーム暖房は止めてある。
◆屍体の外見状況 帽子は栓をした小瓶や注射器と一緒に、枕元に正しく置いてある。そうして泥靴を穿いて、右手の袖口を泥まみれにした外套と上衣を着て膝の処を左右とも泥だらけにしたズボンを穿いて[#「右手の袖口を」から「ズボンを穿いて」まで傍点]、南を枕にして、左手を下に[#「左手を下に」に傍点]敷いた西向きに横臥し、眼を一ぱいに見開いて、窓の外を凝視したまま[#「窓の外を凝視したまま」に傍点]死んでいる。そのワイシャツと、その下のラクダの襯衣《シャツ》は両方とも、同じ左腕[#「左腕」に傍点]上膊部を二枚重ねて横に三寸程|鋏様《はさみよう》のもので截《き》り裂いてあって、そこから注射をした痕は、絆創膏《ばんそうこう》を貼ってないために、淡《うす》い血と淋巴《りんぱ》液が襯衣《シャツ》の裏面に粘り付いている。
容貌と体格[#ゴシック体]
◆容貌 蒙古人種《モンゴリアン》系の大きな顔で、赤味がかった頭髪
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