い泥の粉末が附着しているのであったが、これは矢張り今の推測を裏書するもので、岩形氏はどこかで酔っ払って転んで、手を泥だらけにして帰って来て、先ず扉《ドア》によろけかかって、それから右手でノッブを捻《ね》じって、室《へや》の中によろめき込んだものと察せられる。
私はここまで見届けてから懐中電燈のスウィッチを切ろうとすると、ついうっかりして取り落したが、電燈は大きな音を立てて床の上に転がったまま線が切れもしないで光っている。それを拾い上げようとして腰を屈めかけた私は、志免警部から電話で聞いた報告の中に無い、意外なものを発見したので急に手を引っこめながら左右をかえりみた。傍に立っている二刑事に電燈を指し示して、
「見たまえ」
と云った。
二人の刑事は直ぐに顔をさし寄せて見たが、軽い溜息をしいしい顔を上げて、私と眼くばせをした。その懐中電燈の光線が、鋭い抛物線を描いて、横|筋《すじ》かいに照し出している茶色のリノリウム張りの床の上には、そうと察して見なければ解らない程のウッスリとした、細長い、女の右足の爪先だけの靴痕が印《しる》されているのであった。こんな風に電燈を真正面から垂直に照しかけても見えないものが、真横《まよこ》から水平に近く照しかけると見え出して来るという事実は、実につまらない偶然の事ではあるが、私にとっては初めての経験で、この際としては特に貴重な発見でなければならなかった。
私は早速、電燈を取り上げて、同じように光線を横から床の上に這わせながら、女の左足の痕を探したが、それは右足のすぐ近くに、殆んど扉《ドア》とすれすれの位置に残っている。但しこれは爪先の形が右足のそれよりも稍《やや》ハッキリと現われていて、身体《からだ》の重みが幾分余計に、左足にかかっていた事を証明している。
私はそれから腰を屈めて、床の上の女の足跡がどこから来たか探し初めたが、これはさほど困難な仕事ではなかった。足痕は人の通らない端の方ばかりを選《よ》って歩いているために、殆んど一つも踏み消されたものはなく、昇降口の階段の処まで続いて来て、そこからずっと階下《した》まで敷き詰められた絨氈《マット》の上まで来て消え失せている。
私はその足跡の主が、階段を降りて行く後姿を眼の前に見るように思いつつ、階段の下の方まで見送っていたが、間もなく引返して、日比谷署と、警視庁と、検事局から詰めかけている連中に会うべく十四号室の扉《ドア》をノックして開いた。
そこは岩形氏の屍骸が横たわっている寝室と隣合わせの稍《やや》広い居間《プライベート》で、一流のホテルらしい上等ずくめの……同時に鉄道のホテルに共通ともいうべき無愛想な感じのする家具や、装飾品が、きちんきちんと並んでいたが、そんなものに気をつけて見まわす間もなく、ふと室《へや》の向側を見ると、窓に近い赤模様の絨毯の上に突立った志免警部と飯村部長が、色の黒い、眼の球《たま》のクリクリした、イガ栗頭の茶目らしいボーイと向い合っている。何か訊問をしているらしい態度であったが、私を見るとちょっと眼顔で挨拶をしてから又、二人でボーイの顔を凝視した。
私はこのボーイが岩形氏の変死を最初に発見したボーイに違いないと思った。同時にそのボーイが頭をがっくりと下げたまま、口を確《しっ》かりと噤《つぐ》んでいる横顔が、何かしら一言も云うまいと決心しているのに気付いた。それを志免と飯村の二人が無理やりに問い詰めて、いよいよこじらしているらしい様子を見て取ったので、これはこの際一大事と思ってつかつかと室《へや》の中央のテーブルをまわって行った。すると、それと殆んど同時に、隣の寝室で岩形氏の屍体を取り巻いていた熱海検事以下十余名の同勢がどかどかと寝室から出て来て私の背後を取り巻いたので、只さえぶるぶると顫《ふる》えながら立っていたボーイはいよいよ顫え上ってしまったらしく、傍に近寄って行く私の顔を、命でも取られるかのように身構えをして見上げた。眼の球を真白に剥き出して、唇の色まで失《な》くしてしまった。
私はわざと、その顔を見向きもしないまま見知り越の、熱海検事を振り返って中折帽を取った。
「何かあれからタネが上りましたか。電話で承わりました以外に……」
まだ若い熱海検事は無言のまま恭《うやうや》しく帽子を脱《と》った。そうして静かに志免警部をかえりみた。
「……ええ。この山本というボーイが何か知っているらしいのですけども……」
と引き取って答えながら飯村警部は又ボーイの顔を見た。
「……ワ……私は……何も知らないんです。何もしやしないんです。僕は……僕は……僕は……」
と突然にボーイが叫び出した。唇はわなわなと顫えて、涙が蒼《あお》ざめた頬を伝い落ちた。私はわざと朗かに笑い出した。
「ハハハハハ。誰もお前を犯人とは思っ
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