り、書物を調べたりして、むずかしい顔ばかり致しております。時々そんなような勉強に飽きて来ますと、妾を捕まえまして科学《サイエンス》とか哲学《フィロソフィ》とか英語のまじったむずかしいお話をしかけますけれども妾にはちっともわかりません。そうしておしまいに……わかったか……と申しますから……わかりません……と答えますと、いつでも淋しそうに笑って……お前にはそんな事は解らない方がいい……と申します」
 女はいつとなく滑かに饒舌《しゃべ》り出した。しかもその饒舌《しゃべ》っている事実は、私を題材とした女の創作物語に過ぎなかったが、しかし、何も知らないストーン氏は女の最後の言葉を聞いて笑い出した。
「ハハハハ。先生は大変に学問の好きなお方ですね。そうして大変に真面目なお方でいらっしゃいますね」
「はい。嘘を云う事が一番嫌いでございます。人間は誰でもお金持になれるとは限らない。けれども嘘を云う事と、怠ける事さえしなければ、その人の心だけは、屹度《きっと》幸福に世を送られるものだと、よく私に申しました」
 こう云いながら女は初めて眼をあげてストーン氏を見た。その言葉には処女らしい熱心さが充ち満ちていた。ストーン氏はその美に打たれたように眼を伏せながら、念入りにうなずいて見せた。そうして気を換えるように微笑を含みながら云った。
「貴女《あなた》は先生がお留守の時淋しくありませんか」
「いいえ。ちっとも……」
 と女は力を籠《こ》めて云った。
「私がここに居りますのはお城の中に居るよりも安心でございます。この家の主人の眼が、どんなに遠くからでも見張っていてくれるからでございます。その手は今でもこの家を守るために暗の中に動いているのでございます。そうして妾を安心して睡らしてくれるのでございます」
 この言葉は如何にも日本人らしくない云い表わし方だと思ったが、ストーン氏は却ってよくわかったらしく、如何にも感心した体《てい》で肩をゆすり上げた。
「先生は本当に豪《えら》いお方です」
「はい。私は親よりも深く信じて、敬っているのでございます」
 ストーン氏は又一つ深くうなずいた。そう云う女の顔をじっと見詰めて、軽い溜息を洩らした。

 私は又も堪らなく可笑《おか》しくなって来た。
 一生懸命で緊張しているところへ、こんなトンチンカンな芝居を見せられるからであろう。しかもその舞台に現われている役者は両方とも極めて真剣である。すくなくとも男の方は一方ならず感心しているらしい。いつの間にか女の美貌と、その巧妙な話術に引き込まれて、肝腎の用向きも何も忘れた体《てい》である。ストーン氏は又もすこし躊躇しながら、微笑しいしい問うた。
「……失礼……御免下さい。私は先生は本当に一人かと思っておりました」
「え……」
 と女は質問の意味がわからなかったらしく顔を上げた。ストーン氏はいよいよ躊躇した。
「……失礼……おゆるし……なさい。狭山さんは、いつもほんとうに一人でこの家に暮しておいでになる事を、亜米利加《アメリカ》で聞いておりましたが……」
 女はちょっとうなずいた。けれども返事はしなかった。ストーン氏はとうとう真赤になってしまった。
「……大変に……失礼です。先生は……貴方《あなた》のお父さんですか」
 女はやっと莞爾《にっこり》してうなずいた。そうして心持ちSの字になって、うなだれた。
「はい。狭山は妾《わたくし》のたった一人の親身の叔父でございます。妾も亦叔父にとりましてはたった一人の姪《めい》なのでございますが、いつも妾を本当の子供のように可愛がってくれますから、本当に父になってくれるといいと……いつもそんなに思っているのでございます」
 といううちに今度は女の方が耳まで真赤になってしまった。
 この真に迫り過ぎた名優振りには、流石《さすが》の私も舌を巻かざるを得なかった。……これ程のすごい技倆《うで》を持った女優は、西洋にも日本にも滅多に居ないであろう。リスリンの涙を流す銀幕スターなんか糞《くそ》でも喰らえと云いたい位である。現在嘘と知っている私でさえも、まともにこの女の手にかかったら嘘と知りつつパパにされてしまうかも知れない……と気が付くと、思わずぞっとさせられた位であった。まして何も知らないストーン氏が、どうして参らずにおられよう。如何にも尤《もっと》も至極という風に幾度も幾度もうなずかせられたのは、はたから見て滑稽とはいえ、当然過ぎるほど当然な事であった。
「……そうですねえ。ほんとうにそうですねえ。それでは、いつでもお二人でこの家にお出でになるのですねえ」
「いいえ……あの……一緒には居ないのでございます」
 と女はすこし顔を上げた。
「……平生《ふだん》は妾は遠方の下宿に居るのでございますが、叔父が家《うち》を留守にする時には、いつもどこからか
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