分がどこの人種だかわからなくなってしまいました。紐育の中央郵便局に居りましたのはその途中で逃げ出していた時分の事で、頭髪《かみ》を酸化水素で赤く縮らして、黒《くろ》ん坊《ぼ》香水《こうすい》を身体《からだ》に振りかけて、白人と黒人の混血児《あいのこ》に化けていたのです。けれども自分では日本人に違いないと思いましたから、それをたしかめるために日本に帰って来たのです。ですから私は履歴書も、身元証明も、保証人も何もありません。ただ私の身に附いた芸が、私の履歴や身元を証明してくれるだけです」
「フーム。成《な》る程《ほど》……」
と私はうなずいた。この少年の頭の良さに釣り込まれないように警戒しながら、なるたけ少年の困るような質問を探し出した。
「……それではこの広告の中に……薬物研究、物理、化学初歩程度の知識が必要……と書いてありますが君はどの程度まで研究しておりますか」
これは少年の経歴が話の通りならば、屹度《きっと》学校に入ってはいまい。入っていないとすれば物理化学や、薬物なぞいう高等な研究に対して組織立った知識は持っていない筈だ……と見当を付けたからである。少年は果して赤面した。そうして云い難《にく》そうに口籠《くちご》もった。
「……はい……僕の研究が本物かどうか知りませんけど、私はその広告を見てから急に思い立って薬物と、物理と、化学を勉強し初めました。物理は実験なしでも大抵わかりましたけれど化学は空《くう》ではなかなかわかりませんでしたので中学《ハイスクール》の校長さんにお願いして、自分で薬を買って実験さしてもらいました。初めはなかなか難かしかったんですけど、そのうちに周規律を諳記してしまいますと素敵に面白くなって、じきに有機化学の方へ入りました」
「……ウ――ム……」
と私は唸《うな》り出した。この少年の正則の勉強方法を否定出来なくなったので……。
「それはつまり僕に雇われたいから勉強したんですね」
「……ええ……初めはそうだったんですけど、後《あと》にはそればっかりでなくなりました」
「本当に面白くなったんですね」
「……はい……」
「有機の中《うち》では何が一番面白かったですか」
「毒物の研究が一番面白う御座いました」
「えッ……毒物?……」
「はい……」
私は眼を丸くしない訳に行かなかった。
「……どうして毒物が面白いのですか」
「最前お話ししました中央郵便局で破棄される郵便物の中に貴方のお書きになった『毒物研究』という書物があったんです」
「僕の……」
「はい……」
「……フ――ム……あれは私が道楽に秘密出版をしたもので、各大学の法医学部と、私の持っている参考書の著者に五百部だけ贈呈したものなんだが、それがどうして亜米利加《アメリカ》三界《さんがい》まで行ったんだろう」
「何故だか存じませんけど発送人の名前も何もなくて、宛名は中央郵便局留置27号私書|函《かん》、エム・コール殿となっておりました」
「エム・コール……知らない人間だな」
「……きっと偽名だったろうと私は思うんです。その時にはもう27号の持主が変っていたんですから……」
「成る程……しかし、そんなものは焼き棄てるのが当然でしょう」
「いえ。米国ではそうでもないんです。一度中味を検《あらた》めて、貴重品は国庫の収入にして、そのほかの詰まらないものを局内で競売にして、下役の連中の慰労や何かの費用にしてしまうのです。ですから真実《ほんとう》に焼き棄てるのは危険物だの、まるきり役に立たないものだのばっかりです」
「……ではそれを買った訳ですね」
「はい。けれどもそれを読んでしまった後《あと》に、それが秘密にしてある事が判明《わか》りましたので焼き棄ててしまいました」
「秘密とは書物がですか」
「いいえ。競売にする事です。私は悪い習慣だと思いました」
「成る程。してその書物の中で何が一番面白いと思いましたか」
「みんな面白うございました。飲み物の中に入れると直ぐに溶けて、飲んだ人を一時間の後《のち》に殺す支那の丸薬や、モルヒネをきっかり三時間後に利かせるように包むカプセルや、遠乗りの時に相手の馬にそっと舐《な》めさせておいて、きっちり二十分後に暴れ出させて、相手を殺すか傷つけるかする何とかいう石楠花《しゃくなげ》に似た植物の毒の話や……名前をつい忘れましたけれども……」
「……ちょっと待ち給え……それは馬酔木《あしび》の毒でしょう」
「そうです。やっと思い出しました。この頃アフリカから米国に輸入されております大変に安くてよく利く馬の皮膚の虫取り薬です。コンゴー・ポイゾンと私共は申します。真黒なネットリした液体です。百|磅《ポンド》入りの鑵《かん》の上に貼った黄色い紙に、C・Pという頭文字《イニシアル》と、その植物の絵が印刷してあります」
「……ふ――む…
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