しお》頭を真黒に染めて、いつも生やしっ放しの無精髭《ぶしょうひげ》を綺麗に剃って、チェック製黒ベロアの中折《なかおれ》の下に、鼈甲縁《べっこうぶち》の紫外線除けトリック眼鏡を掛けて、ルーズベルト型ダブルカラに土耳古更紗《トルコさらさ》の襟飾《ネクタイ》、黒地のタキシード服と、青灰色の舶来地外套、カンガルー皮入のエナメル靴を穿いて、茶色のキッドの手袋に、銀頭の紫檀《したん》のステッキという十年も若返った姿をしている。実は嬢次少年が注意しなければ、もっと手軽な変装で済ますつもりであったが……、
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……仲間にハドルスキーといって団長の片腕になっている露西亜人がいる。この男は鬚武者の巨漢《おおおとこ》の癖に恐ろしく智恵の廻る奴で、この一年ばかりの間、団長と一緒に欧羅巴《ヨーロッパ》[#《ヨーロッパ》は底本では《ヨーヨッパ》と誤記]をメチャメチャに掻きまわして廻ったのは、ハドルスキーの智恵に外ならぬ。だから団長は曲馬団の事をハドルスキーに任せ切っている位である。……ところがこのハドルスキーは、嘗て桑港《シスコ》のホテルで同室した際に、この曙《あけぼの》新聞を私の鞄の底から引き出して、不思議そうに眺めまわしているのを、鍵穴から覗いて見た事がある。その時はまだ東京駅ホテルの記事にも赤丸を附けていなかったので、それと知ったかどうか解らないが、用心のために何もかも察しているものとして、出来るだけ大事を取って、念入りに変装して下さい。団長も貴方《あなた》の顔は新聞の写真や何かで研究してよく知っている筈ですから……。
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……と言葉を尽して忠告したので、その通りに取っときの変装をした物で、ここへ来がけに警視庁へ立ち寄って来た時も……私が志免ですが、何の御用でお見えになりましたか……というステキもない保証を貰って来た位である。見付かる筈は絶対にない。
私は一寸《ちょっと》の間《ま》に、これだけの考えを廻《めぐ》らして自信を固めた。そうして今のはもしや自分の眼の迷いではなかったかと思いながら、もう一度よく見定めるつもりで、今しも第二周目に這入った五頭の馬を見た。
第一頭……第二頭……カルロ・ナイン嬢は見物一同の喝采の声に応ずるために紫のハンカチを振って近付いて来た。そうして私の直ぐ背後《うしろ》あたりをチラリと見ただけで通過した。私の顔には視線を落さなかった。その次に来た鬚武者は、馬上に突立ち上って大手を拡げたまま近付いて来たが、これも私の直ぐ背後《うしろ》あたりを見ながら駈けて行った。あの鬚男がハドルスキーだな……ともう一度念のために番組を拡げて見るとハドルスキーの名は最後《ドッサリ》の真打《しんうち》格の位置に書いてある。私はすこし安心した。今のは自分の眼の迷いかも知れないと思った。
第三周に這入った。今度はこっちからハドルスキーの顔を記憶するつもりで近づいて来るのを待ったが、今度もカルロ・ナイン嬢とハドルスキーは私に視線をくれなかった。前の通りに私のすぐ背後《うしろ》のあたりを見て行った。しかし、そのハドルスキーの後姿をじっと見送っているうちに、私はどこかで見たような男だな……と思った。見たとすれば多分、外国に居る時分の事と思われるが、私はそんな古い事のような気がしない。つい近頃の事のように思われてならぬ。けれどもこの時はどうしても思い出し得なかった。
五頭の馬が勢よく楽屋の方へ駈け込んで行くと又、場内一面に拍手の音が波打った。カルロ・ナイン嬢の姿が三度ほどアンコールされた。三度目には馬から降りて、徒歩で出て来て一揖《いちゆう》したが、その気高い姿勢と、洗煉された足取りは、疑いもない宮廷舞踊の名手である事を証明していた。
その姿が満場のどよめきを背後《うしろ》にして楽屋口に消え込むと、見物の中には申し合わせたように番組を出して次の曲目を見る人が多かった。私の前の席に居る霜降りマントに黒山高の白髯《はくぜん》紳士と、左に居る角帽制服のすらりとしたチャップリン髭の青年も大きな声で話を初めたが、二人は識《し》らない同志らしいけれども双方とも余程の馬好きらしく、最前から頻《しき》りに馬の話をし続けているのであった。
「面白かったですね」
「さようさ……最前の満洲馬よりも、馬が立派じゃから引っ立ちますな」
「満洲馬と哥薩克《コザック》馬はあんなに違うものでしょうか」
「違いますともさ。この頃の哥薩克馬には、ノースターや、アラビッシュの血が交っておりますのでな。哥薩克[#「哥薩克」は底本では「哥薩哥」と誤記]の頭目じゃったミスチェンコの乗馬なぞは立派なアングロ・アラビッシュのハンツグロで、しかも哥薩克以上に耐寒耐暑の力が強かったそうですがな」
「へえ……して見ると満洲馬はまるで駄馬ですね。小さくて……」
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