こから洩れ込む光線が、場内に籠っている人いきれと、煙草の煙とを朦朧と照しているために、楽屋から演技場に出て来る通路は黄金色《こがねいろ》の霧に籠められて、そこいらを動きまわる人間が皆、顕微鏡の中の生物《いきもの》のように美しく光って見える。中央の演技場は直径二十間位の円形を成していて、草一本、石ころ一つないように掃き浄められているが、この周囲を取り巻く人間の数は無慮三千以上もあろうか。興行が眼新しいのと、場所がいいのと、入場料が安いのと三拍子揃っている上に、天気がよくて、おまけに風がないと来ているので、満場|立錐《りっすい》の余地もない大入りで、色々な帽子やハンカチが場内一面に蠢《うごめ》いている有様は宛然《さながら》あぶらむし[#「あぶらむし」に傍点]の大群のように見える。外国人も、むろんその中に大勢交っていて、私の居る特等席を中心にして場内の方々に散らばっているようである。
 やがて拍手の音が演技場の四方から湧き起ると豪快な露西亜《ロシア》国歌「戦い熟せり。勇めや進め……」のマーチに連れて、四頭の馬に乗ったコサック騎兵が現われた。但し、コサック騎兵とはいうもののその服は青と紫と、赤と、緑の四色の化粧服で、長い槍の尖端もニッケル鍍金《めっき》で光っている。ただ人間と馬だけは本物のコサック産らしく、場内に乗り込んで来ると直ぐに左右に引き別れて槍の試合を初めた。試合といっても、それはほんの武技の型に過ぎなかったが、それでも随分猛烈なもので、マーチに入れ交る野蛮な掛け声と共に、木《こ》ッ葉《ぱ》のように馬を乗りまわし、槍を搦《から》み合わして闘いながら落ちようとして落ちなかったり、馬の腹をぐるぐる這い廻ったりするところは、度々見物を唸《うな》らせた。
 十分間ばかりで試合が済むと見物席に一しきり喝采《かっさい》が湧いた。烈しい口笛を鳴らす者もあった。これは一座の明星カルロ・ナイン嬢の出場を予期した動揺であったらしい。その十分に調子付いた見物の亢奮《こうふん》的喝采の裡《うち》に、コサック式の白い外套、白い帽子、白手袋、白長靴、銀拍車という扮装《いでたち》で、白馬に跨《またが》ったナイン嬢は、手綱を高やかに掻い繰りながら現われたが、私の居る特等席の正面七八間の処まで来て馬を止めると、見物一同に向って嫣然《にこやか》に一礼をした。見ればまだ十五六にしか見えない花恥かしい少女であるが、何もかも眩しい程の白ずくめの中に、黒い縮れた髪に蔽われた頬と、胸に挿した一輪の薔薇《ばら》とが薄紅色をしているばかりである。雪の精というものがもし外国にあるならば、このような姿ではあるまいかと私は思った。
 その瞬間に雷のような喝采が再び湧いた。私はシュミッド特製のオペラグラスを眼に当てた。
 私は決して好色漢ではないつもりであるが、青年時代を西洋で過したお蔭で、美人の鑑定法ぐらいは一通り心得ているつもりである。殊に、美人というものの標準から見れば、日本美人は到底、西洋美人の敵でないという議論は、よく洋画家なぞが口にするところで、自分も固くそう信じているのであるが、不思議にも今まで、あまり共鳴者がないばかりでなく、西洋かぶれの候《そうろう》のと烈しい反対を喰った事さえある。これはこの議論が、日本人特有の負け惜しみ根性を刺戟するせい[#「せい」に傍点]らしいが、それにしても、これ位明白な事が解らぬというのは、余りに尻《けつ》の穴の狭い話で、こんな涙ぐましい愛国心ばかりで固まり合っているから、横着な、図々しい西洋文明にたたき付けられてしまうのだと、私はいつも憤慨していた。殊に今双眼鏡の中に入って来たカルロ・ナイン嬢の姿を見ると一層この感を深《ふこ》うしたのであった。
 ところで西洋美人の最美なるものは、常に黄金《こがね》色の髪の毛と、空色の瞳とを持っているものである。しかし吾々日本人の眼から見ると、露西亜《ロシア》、伊太利《イタリー》、もしくは西班牙《スペイン》系統の美人に見るような、黒い髪と、黒い瞳の方が一層深い親しみと懐しみを感じられるのは無理からぬ訳である。カルロ・ナイン嬢は正《まさ》にその後者の方で、全体に小柄の方であるが、心持|玉子《たまご》形をした拉典《ラテン》系統の顔の輪廓と、端麗花を欺《あざむ》く眼鼻立ちと、希臘《ギリシャ》の古彫刻そのままの恰好のいい頸《くび》すじと、気高くしなやかな身体《からだ》付きとは、人種と男女と老若の差別を問わず、満場を恍惚《こうこつ》たらしむる資格を十分に持っている。殊にその白い華奢《きゃしゃ》な長靴に包まれた足首の恰好のいい事……私は決して好色漢ではないが、こんな素晴らしい足首は日本美人には絶対に発見されない。カルロ・ナイン嬢の身体《からだ》にはこれ等のすべての条件が遺憾なく備わっているばかりでなく、その容姿の全体
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