|引返《ひっかえ》して様子を窺った足跡を、室《へや》に這入る前に窺ったものと見たために、女の殺意を認めたのです。面目次第もありません」
若い熱海検事は子供のように顔を赤くした。
「そう云われると僕も面目ないです。ただ志村氏が窓を開いたままにして、横向きに寝て、窓の外を大きな眼で睨んでいる状態が何となく尋常でなかったので、もう一度考慮し直してみたいと思っただけです。……しかしこの話を外務省が聞いたら吃驚《びっくり》しましょうね」
私は苦笑しながら熱海氏の前に手紙を差し出した。
「志村のぶ子と、樫尾初蔵の処分方法は、貴官《あなた》から外務省へ御交渉の上、御決定下さい。二三時間の中なら、捕縛の手配が出来ると思います」
「承知しました……しかし……」
と熱海検事は又も顔を染めて微笑した。私が差出した手紙と聖書をちらりと見たが、別に受取ろうともしないまま、心持ち口籠《くちご》もって云った。
「……放ったらかしといても……よくはないでしょうか」
この大胆な放言には流石《さすが》の私もどきんとさせられた。そうして思わず熱海検事の手を握らせられたのであった。
「……実に……御同感です。志村のぶ子と樫尾初蔵の二人はやまと民族の意識を十二分に持っている者です。彼等二人は今後吾々のために、今まで以上の働きをするに違いありません。私は彼等二人を捕《とら》えたくないのです。……その代り……今後、J・I・Cの団員は二重橋橋下に一歩も立ち入らせますまい」
熱海氏は返事をしなかった。恭《うやうや》しく帽子を脱いで別れを告げると、依然として微笑しいしい古木書記を従えて入口の方へ歩いて行った。そうして何か考え考え扉《ドア》の前まで来ると思い出したように振り返った。
「狭山さん。唯一つ遺憾な事がありますね」
「はあ……何ですか」
「お互にその美人の顔を一度も見なかったじゃないですか。ハハハ……」
私は唖然《あぜん》となってその後姿を見送った。
新聞に出ているのは、これだけの事実を切り縮めたものでかなり杜撰《ずさん》なところが多いばかりでなく、事件の核心にはちっとも触れていなかった。すなわち引き続いた翌日の朝刊に岩形圭吾氏の屍体解剖の結果としては、毒殺に使用した薬物の正体が依然として不明なので目下研究中であること……注射は筋肉注射であったこと……左腕の刺青《いれずみ》はNK(のぶ子、浩太郎)の二字の組み合わせであったことが辛うじて判明したこと……などが報道してあるだけである。又警視庁の活躍としては、銀行の一件だのカフェー・ユートピアの出来事などは無論書いてある筈がない。ただ私がステーション・ホテルを出てから数時間の間、行方を晦《くら》ましていた事、刑事が八方に飛んで、借着屋を調べた事なぞを書いておしまいに……、
「午後二時に至り刑事課は有力なる証跡を挙げ得たるものの如く俄《にわ》かに色めき立ち、熱海検事、狭山課長等合計七名の一行は二台の自動車に分乗し、麹町方面に向いたるが、該自動車が犯人の潜伏せる麹町区土手三番町旧|浸礼《しんれい》教会に到着したる時は、犯人は既に一台の高速力の自動車にて逃走せし跡にて、一同は手を空しくして帰来せり。その後の経過はこの稿締切迄は不明なり。然《しか》れども此《かく》の如き巧妙なる犯罪事件を犯行後僅々十数時間を出でざる間に解決し、犯人の住居までも突止めたるは偏《ひとえ》に吾が狭山鬼課長の霊腕に依《よ》るものと云うべく、従って犯人の就縛《しゅうばく》も遠きに非ざるべしと信ぜらる。因《ちな》みにステーション・ホテルのボーイ山本は、余りの事に驚きて一時失神し、覚醒後、発熱甚だしきを以て面会を謝絶しおるも、その他のボーイ仲間との話と、タクシー会社の運転手仲間の噂と、別に本社の探知し得たるところを綜合するに、犯人は志村のぶ子と称する絶世の美人なる事確実にして、該美人を乗せ行きたる自動車T三五八八より足が付きたるものらしく、該自動車とその運転手、樫尾初蔵、及び、狭山課長のみは今以て帰来せず。土手三番町の犯人の潜伏所にも居らず。そして午後三時前後に帰来せる今一台の箱自動車一九三六の運転手芳木は何事も包みて語らざるより察すれば多分鬼課長は再び何等かの有力なる端緒を得て、その方面に向い活動を開始せるに相違なし。吾人《ごじん》はその活動の結果を、明日の本紙上に報道し得べき事を信じて疑わざるなり」
と結んで、おまけにどこで撮《と》ったかわからない私の横顔の写真に、鬼課長狭山氏と標題《みだし》を付けて割込ましてある。
それを見ると私は思わず顔を撫でまわさない訳に行かなかった。既に白状した通り、実を云うと私はこの時に有力な端緒を掴んだ訳でも何でもない。あべこべに最も有力な端緒を取逃がしたり放棄したりしていたので、青山一丁目附近でT三五八八の自動
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