、春近い日光をサッと投げ落して、枳殻《からたち》の生垣と、その前に立った少年の肩とを眩《まぶ》しく照し出した。
少年と向い合ったまま黙って突立っていた私は、その時にやっと吾に帰った。
「何か御用ですか」
「ハイ」
と少年は即座に答えたが、その声調はハッキリした日本語のように思えた。そうしてポケットから名刺を一枚出して謹んだ態度で私に渡した。それは小型の極上|象牙紙《アイボリイ》に新活字の四号で呉井嬢次《くれいじょうじ》と印刷したもので、裡面《りめん》を返してみると印刷かと思われる綺麗なスペンシリア字体で George, Cray. と描いてある。所番地も何もない。
「ジョージ。クレイ」
と私は心の中で繰り返した。外国人か日本人か依然としてわからない。疑問はどこまでも疑問である。日光が名刺の表に反射して活字が緑色に見えて来た。同時に少年の唇に含まれた微笑が一層深くなった。
「こっちへお這入《はい》りなさい」
と云い棄て、私は青ペンキ塗《ぬり》の門の中へ這入った。
赤い芽を吹きかけているカナメの生垣の間に敷き詰めた房州石の道を五間ばかり行くと、やはり青ペンキ塗の玄関になっている。その扉《ドア》を鍵で開いて内部に這入ると少年も続いて這入った。
この家《うち》は或る石油会社へ奉職する西洋人夫婦が、本国へ引き上げたあとを譲り受けて、自分でペンキを塗り換えたり何かして、手を入れて住み込んだもので、玄関の左の六坪ばかりの室《へや》を書斎兼応接間にして、その奥を台所に宛てている。私は少年をその書斎兼応接間に通じて瓦斯《ガス》ストーブに火を入れた。それから玄関の右手の寝室に這入って外套《がいとう》と帽子を脱いだ。寝室の奥は私の研究室、兼、仕事場になっていて、色々な機械や、有機化学なんどに関する書物が雑然と並んでいる。私の家にはこの四室しかないのである。
私はこの中《うち》で純然たる独身生活をやっている。洗濯や調理は勿論の事、屋根の修繕から芝生の手入れまで自分で遣《や》る。雇人は一人も居ない。何故そんなに面倒臭いことをするかと訊ねる者もあるが私は少しも面倒と思わない。却《かえ》って暢気《のんき》で、静かで、自分の性質に合っているとさえ思っている。
生れながらの孤児である私は、外国で長い事、この生活を続けて来た。日本に来て妻帯してからは暫くの間止めていたが、一昨年その妻が、一人も子供を残さずに死んでから又昔の生活に帰った。だから私は日本中は勿論の事、外国にも血縁の者が居ない。居るかも知れないがまだ尋ねて来ないし、こっちから探した事もない。又友達から二度目の妻帯を勧められた事もあったが、私は一度も応じなかった。だから私は勢い孤独の生活を過さなければならなかった。
友達は皆私を変人とか仙人とか云ったが或《あるい》はそうかも知れぬ。又ある者は一種の疳癪《かんしゃく》持ちと評したが、これはたしかに事実である。私が警視庁に在職中、あらゆる仕事を我流一点張りで押し通したために、社会の暗黒面に住む人間ばかりでなく、部下の警官連や、上官にまでも恐れられていたらしい事は、新聞の下馬評や何かにも屡々《しばしば》伝えられたところで、従って最近に至って、上官と大衝突をやって退職したのもこの疳癪が大原因を成している事は自分でもよく知っている。吾ながら損な性質だと考えている位である。
しかし私がこのような性質になったのは決して生れ付きではない。英国で両親を喪《うしな》ってから日本に来る迄の二十何年の間、あらん限りの苦労を重ねて……この世には悪人ばかりしか居ないものか……と思う程《ほど》酷遇《いじめ》られたために自然とこんな風に一徹《いってつ》な……自分の事はどこまでも、自分の流儀で勘定を合わせて行く……という一種の勧善懲悪的な思想の中に逃げ込んでしまった。そうしていつの間にか「嘘を云う心の変る社会人間」よりも「嘘を云わず、永久に心の変らぬ科学実験の機械」を相手に造化の秘奥を探る方が、はるかに安全で気楽だと思うようになったので、この意味から云えば警視庁の仕事は衣食のために止むを得ず、研究の隙《すき》を割《さ》いてやっているに過ぎなかった。
こんな風だから私は真実《ほんとう》の孤独の生活で友達といっても信頼する部下以外に、これという程の者もない。殊にこの間職を罷《や》めてからというものはこの「不正を憎む心」と「淋しさを楽しむ性質」が一層烈しく募って来て、朝から晩まで顕微鏡や、ビーカーや、天秤《てんびん》を相手に明かし暮らすよりほかに楽しみがないようになった。そうして、これを妨げる者があると非常に腹が立つので、来客を好まぬは愚か、程近い幼稚園の唱歌までも折々は「うるさいなあ」と舌打ちをする位になった。これは一つは五十近い年のせいでもあろうが、もう一つには私の
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