いも何も掛けていず青い中折帽から新しい背広服に至るまで、最前とはまるっきり様子が変っているので、もしかしたら私の思い違いかも知れない。第一あの運転手ならば、私が警視庁の人間である事を気付くと同時に、多少に拘わらず吃驚《びっくり》した表情をあらわす筈である……なぞと考えながらつい鼻の先に山口勇作と貼り出して在る運転手の名刺を見ているうちに自動車は最早《もう》、半蔵門の曲り角に立っている人混《ひとごみ》を電光のようにすり抜けて、麹町の通りを一直線に、土手三番町へ曲り込んだと思うと、二葉女学校の裏手にある教会らしい小さな西洋館の前でピタリと止まった。止まると同時に志免警部は、私に一挺のブローニングを渡しながら真先《まっさき》に飛び降りて、空色のペンキで塗った門の扉を両手で押したが門は締りがしてなかったと見えてギイと左右に開いた。そこから真先に躍り込んだ志免警部に続いて三人の刑事が走り込んだ。
 続いて私が降りようとすると、運転手は初めて気が付いたらしく、ギョロリと光る眼で私を見たが一寸躊躇しながら、丁寧に帽子を脱いで訊ねた。
「旦那……待っておりますでしょうか」
「うむ。そうしてくれ」
 と云い棄てて私は門を這入った。
 家は旧式赤|煉瓦《れんが》造りの天井の高い平屋建で、狭い門口《かどぐち》や縦長い窓口には蔦蔓《つたかずら》が一面にまつわり附いていた。その窓の上にある丸い息抜窓に色|硝子《ガラス》が嵌めてあるところを見ると昔は教会だったに違いない。私は永年東京に居るお蔭で、到る処の町々の眼に付く建物は大抵記憶しているつもりであるが、この家は今まで全く気が付かなかった。それくらい陰気な、眼に付きにくい建物であった。
 私は故意《わざ》と中へ這入らずに、万一の用心のつもりで門の処に張り込んだまま待っていた。そのうちに頭の上の高い高いポプラの梢から黄色い枯れ葉が引っきりなしに落ちて来た。予審判事の乗っている自動車はまだ来ない。家の中にも何の音も聞えず、予期したような活劇も起りそうにない気配である。
 私はあんまり様子が変だから表の扉《ドア》を開いて中に這入ってみた。見ると内部はがらんとした板張りで埃だらけの共同椅子が十四五ほど左右に並んでいる。正面には祭壇があって真鍮《しんちゅう》の蝋燭《ろうそく》立てが並んでいるが十字架はない。その代り左手の壁に聖母マリアの像と、それから右手に基督《キリスト》が十字架にかかっている図が架《か》けてある。……この絵を見ると私はやっと思い出した。それは何でも私が東京に来た当時の事で、驟雨《しゅうう》に会って駈け込んだ序《ついで》に、屋根の借り賃のつもりで一時間ばかり説教を聞いた事がある。その時に独逸《ドイツ》人らしい鷲鼻の篤実そうな男が片言まじりの日本語で説教をしていたが、その男が十年後の今日になって戦争で引き上げた後を調査したら、独探《どくたん》だった事が判明したので一時大騒ぎになって、その男の顔が大きな写真になって新聞に出た事がある。その時にもこの絵の事を思い出したが、私が関係した事件でなかったので忘れるともなく忘れていた。その跡を女が借りたものであろう。
 そのうちに私は窓の上を這っている電燈と電話の線を発見したが、電燈の方は室《へや》の中央に旧式の花電燈があるから不思議はないとしても、こんなちっぽけな教会に電話は少々不似合である。……ハテ可怪《おか》しいな……と思いながら祭壇の横の扉《ドア》を開くと八畳ばかりの板張りになって、寝台が一つと、押入れと、台所と戸棚が附いている。寝台の上の寝具は洗い晒《ざら》した金巾《かなきん》と天竺木綿《てんじくもめん》で、戸棚の中には小桶とフライパン、その他の台所用具が二つ三つきちんと並んでいる。水棚の上も横の瓦斯《ガス》コンロも綺麗に掃除してある。その先は湯殿と、便所と物置で、隣境いの黒板塀との間に金盞花《きんせんか》が植えてある。
 私は慌てて押入を開けてみた。鼠の糞《ふん》もない。その床板を全部|検《あらた》めてみたが一枚残らず釘付になっている。
 私は裏口へ飛び出してみた。庭は四方行き詰まりで新しい箒目《ほうきめ》が並んで靴|痕《あと》も何もない。
「逃げたな」
 という言葉が口を衝《つ》いて出た。そうしてそのまま表の説教場に引返《ひっかえ》すと、そのまん中の椅子の間に書記を連れた熱海検事が茫然と突立っていたが、私を見ると恭《うやうや》しく帽子を脱いだ。
「どうも遅くなりまして……自動車の力が弱くて五番町の坂を登り得ませんでしたので……犯人は挙がりましたか」
 私は無言のまま頭を左右に振った。それを見ると熱海検事は同氏特有の憂鬱な眼付きをして、森閑《しんかん》とした室《へや》の中を見まわしてから又私の顔を見た。志免警部を入れた四名の警官が煙のように消えてしま
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