に予想した通り、私がこの女に会いさえすれば万事が氷解する段取りになって来たではないか。しかもその勝敗の決する時間は今日の午後五時……時計を出してみると、今から約三時間半の余裕がある。……彼女が紅海丸に乗らなかったのも、多分この会見に心を惹かれたためであろう。
こう考えて来るうちに私は思わず武者振いをした。……この事件はちっぽけな殺人事件として片付ける訳に行かなくなった。うっかりすると日本民族の存立にかかわるような大事件を手繰《たぐ》り出すかも知れない。畜生。どっちにしても相手は大きいぞ……と逸《はや》る心を押し鎮めるべく敷島を一本|啣《くわ》えながら公園の中にある自働電話に駈け込んで、警視庁に電話をかけて赤原警部を呼び出した。これは新聞記者を避けるために私が用いる常套手段で、このために私は殆んど毎日五銭以上の損害を新聞記者から受けていると云っていい。
出て来た赤原巡査部長に何か報告はないかと尋ねると、直ぐに答えた。
「志免警部は十一時半までに横浜から何の報告もありませんでしたから、御命令の通りに各港へ電報と電話と両方で、女の乗客を調べるように通達致しました。それからタイプライターと法被《はっぴ》に関する報告が書き取ってありますが……」
「読んでみたまえ」
「……一つ……芝区に向いたる轟刑事第一報告(午後十二時五分着)新橋二五〇九と染め抜きたる新しき法被を日蔭町の古着店にて発見せり。売却人は若き車夫|体《てい》の男にて『この法被はいらなくなったから売る』といいたり。古着店主辻孝平は該《がい》車夫が、番号の相違せる古き法被を下に着たるを怪しみ理由《わけ》を問いたるに『なに。この法被は貰ったんだけれど番号を改《か》えるのが面倒だから売る』と云いたるを以て三十銭に買い取りし旨を答えたり。時刻は昨夜九時頃にして、面体、及び、下に着せる古き法被の番号は明瞭に記憶せざれどたしか芝……〇二なりしと云えり。但し、その時俥は引きおらざりしとの事なり。小官はこの旨を新橋署にて調査中なりし金丸刑事に報告し、法被は店主に保管を命じ借着屋の調査に向いたり。
一つ……金丸刑事第一報告(十二時二十五分着)新橋二五〇九の俥は実は芝一四〇二号なり。芝神明前俥宿|手鳥《てどり》浅吉の所有にして挽子《ひきこ》は市田勘次というものなり。十二日午後二時頃、同人は客を送りて麹《こうじ》町区|隼《はやぶさ》町まで行きたる帰途、赤坂見附の上に差しかかりたるに、三十前後の盛装したる女に呼び止められ、華族女学校横まで連れ行かれ、金五円を貰い、新しき法被を着せられ、山下町東洋銀行に到り、白き書類様の包みを受取り、市ケ谷見附まで引き行きて件《くだん》の客を下し、法被を脱ぎて帰るさ同見附駐在所にて呼び止められ『何故《なぜ》に毛布を垂らして俥の番号を隠しいるや』と叱責され謝罪して帰りたる由。因みに、その時同人は新しき革足袋《かわたび》を穿き、古きメルトン製の釜形帽を冠りおりたる由……おわり……」
「それだけかね」
「それだけです。あ……丁度志免警部が帰って来ました」
「電話に出してくれ給え」
「アアモシモシモシモシ」
疑いもない志免警部の声であるが、どうしたものかすっかり涸《か》れてしまっている。
「モシモシ。課長殿ですか。課長殿ですか」
「どうしたんだ君は……僕だよ……狭山だよ」
「女の手がかりが付きました」
これだけ云って志免警部は息を継いだ。
「どうして……どこで……」
と私は態《わざ》と落着いて云った。志免警部は水か何か飲んでいるらしく頻《しき》りに咽《むせ》る音が聞えたがその間私は黙って待っていた。
「モシモシ。モシモシ。時間ですよ」
と交換手の声が聞えて来た。私は又五銭白銅を穴の中へ入れた。その音の消えない中《うち》に志免警部は口を利き出したがもうぐっと落ち着いている。
「……や……失礼しました。あまり急いだものですから息が切れて」
「どうしたというのだ」
「タクシーで逃げるのを自転車で追《おっ》かけたのです」
「逃がしたのか」
「逃がしましたがその自動車の運転手が帰って来たのを押えて何もかも聞きました」
「御苦労御苦労……手配はしてあるね……」
「ハイ。それから熱海検事が今総監室に来ておられます。一緒に来られるそうです」
「検事なんか何になるものか。自動車はいるね」
「ハイ。皆出切っておりますから呼んでいるところです。……実は女《ほし》の隠家《あな》を包囲したいと思うんですが、十四五名出してはいけませんか」
「いけない。眼に立ってはいけない。国際問題になる虞《おそ》れがある」
「今どこにお出《いで》ですか」
「日比谷だ」
「それじゃお迎えにやります」
「来なくていい。そこまでなら電車の方が早い」
日比谷公園の正門を駈け出すと、全速力の電車に飛び乗った私は五分
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