影……美しい女の姿……暗い静かな声は、次第次第にゴンクール氏の魂を包んで行った。「死んだ者の怨みの声」を聞き「眼に見えぬ執念の手」に触れられるこの世の外《ほか》の世界へ、一歩一歩引き込んで行く。
 抵抗しようにも相手のない「この世の外《ほか》の力」……その力はゴンクール氏の魂をしっかりと握り締めて、次第次第に死の世界へと引っぱり寄せて行く。
 手を押えられたのならば振り放す事が出来る。足を捉えられたのならば蹴飛ばす事が出来る。牢に入れられたのならば破ることが出来る、けれども魂を捕えられた者は逃げようがない。仮令《たとえ》宇宙の外に逃げる事が出来ても魂が自分のものである以上、捕えた手はどこまでも随《つ》いてくる。しかもその魂を捉えている手は影法師と同様の力のない手である。……ゴンクール氏の魂は唯、空《くう》に藻掻《もが》くばかりであった。
 涯てしもない恐怖によって絞り出された、生命そのものの冷たい汗に濡れた氏の顔面は、蒼白い燐火のような光りを反映し、その赤味がかった髪の毛は、囚われた霊魂の必死の煩悶と苦悩のために一|呼吸毎《いきごと》に白く枯れて行くかと思われた。それでも氏はなおも最後の無我夢中の力を振り絞って、無理に眼を見開いて相手の女を見ようとした。疲れ切ってひくひくと引き釣る腕を引き上げて女を狙おうとした。自分を呪うべく突立っている眼の前の美しい幻影に向って、死物狂いの一発を発射しよう発射しようと努力した。
 けれどもその力も全く尽きる時が来た。
 氏の全身に残っている生命《いのち》は一努力|毎《ごと》に弱くなり、一|喘《あえ》ぎ毎《ごと》に稀薄《うす》くなって行った。恰《あたか》も室内に籠っている煙がいつの間にか消え失せてしまうように、殆んどあるかないか判らぬ位になってしまった。ぐったりと垂れ下った手の指から拳銃《ピストル》は、おのずと抜け落ちて、床の上に音を立てた。その肩は落ち、腰は砕けて、よろよろとよろめいて室《へや》の隅にたおれかかって、斜にずるずると半分ばかり傾いて、頭をがっくりとうなだれると、支那産の絨毯の上に手と足を投げ出したまま、森閑と動かなくなった。その顔面の筋肉は蝋のように垂れ下って、力なく伏せた瞼の下の青い眼はどこを見ているのかわからぬように、どんよりと白茶気てしまった。死の影は全くゴンクール氏を蔽うてしまった。氏の全身は死相を現じて来た
前へ 次へ
全236ページ中210ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング