られて、あの恐ろしい説明を聞いた記憶と、この結び目の白い埃は永久に両立しない二つの事実に相違なかった。正確に矛盾した二つの出来事であった。
私は全身に伝わる悪感《おかん》を奥歯で噛み締めながら、尚《なお》もワイワイと痙攣する両手の指で、青い風呂敷包みを引き拡げた。するとその中から最前見た通りの新聞紙包みと、若林博士の調査書類の原本とがやはり最近見た通りの形にキチンと重なり合って出て来た。それ許《ばか》りでなくメリンスの目から洩れ込んだ細かい埃は、調査書類の原本の表紙になっている黒いボール紙の上にもウッスリと被《かぶ》さっていて、絵巻物の新聞包みを取除《とりの》けると、又も長方型のアトカタがクッキリと残った。
私は又も唖然となった。余りの不思議さに狐に抓《つま》まれたようになりつつ、自分が正気でいるか如何《どう》かを確かめるような気持ちで、まず絵巻物の新聞包みをソロソロと開いた。その新聞紙の折れ具合、箱の蓋の合い加減、巻物の捲《ま》き様《よう》、紐の止め方まで細かに調べてみたが、余程几帳面な人間の手で蔵《しま》い込んであったものらしく、どこもここもキチンとしていて、二重に折れ曲った処や、折目の歪《ゆが》んだ処は一個所もないのみならず、巻物を繰り拡げて見ると、防虫剤らしい、強い香気を放つ白い粉が、サラサラと光って机の上に散り落ちた。次に開いた調査書類も同様で防虫剤こそ施《ほどこ》してないが、パラパラと頁《ページ》を繰って行くうちに、埃臭い香《かおり》がウッスリと鼻に迫って来る。いずれにしても最近に人の手が触れなかった事は確かである。
私はそれから尚《なお》念のために、フールスカップを綴じ合せた正木博士の遺言書を開いて見た。そうして最後の二三頁を繰り返して見たが、今朝《けさ》まではインキが乾いて間もない、青々としたペンの痕跡《あと》に見えたのが、今はスッカリ真黒くなって、行と行との間には黄色い黴《かび》さえ付いているようである。どう見ても二日や三日前に書いたものとは思えないのであった。
私は不思議から不思議へ釣り込まれつつ、最前正木博士がした通りにその調査書類を風呂敷の外へ抱え出してみた。すると意外にもその下に、一枚の古ぼけた新聞の号外が下敷になっているのを発見した。これは最前、正木博士がこの風呂敷をハタイタ時には、確かに存在していなかったものであった。
私はキョロキョロとそこいらを見廻した。
私はこの室《へや》の中のどこかに、眼に見えぬ奇術師が居て、手品を使っているとしか思えなかった。それとも私の精神が又も変調を起して、何かの幻覚に陥っているのではないか知らんと思い思い、こわごわその号外を取上げて見たが、八ツに折られた新聞紙一頁大の右肩にトテツもない大きな活字で印刷してある標題を読むと思わず「アッ」と叫び声を挙げた。背後の廻転椅子に引っかかってヨロメキ倒れそうになった。
それは大正十五年の十月二十日……正面の壁のカレンダーが示す斎藤博士の命日の翌日……正木博士が自殺したと若林博士が言ったその日に、福岡市の西海新聞から発行されたもので、頁の左肩には鼻眼鏡を光らして、義歯をクワット剥出《むきだ》した正木博士の笑い顔が、五寸四方位の大きさに目の荒い粗《あら》い写真版で刷り出してあった。
九大精神病学教授[#「九大精神病学教授」は本文より2段階大きな文字]
正木博士投身自殺す[#「正木博士投身自殺す」は本文より5段階大きな文字]
同時に狂人の解放治療場内に勃発せし稀有《けう》の惨殺事件曝露す[#「同時に狂人の解放治療場内に勃発せし稀有《けう》の惨殺事件曝露す」は本文より1段階大きな文字]
今《こん》二十日午後五時頃、九州帝国大学精神病学教授、従六位医学博士正木敬之氏が溺死体となって、同大学医学部裏手、馬出浜《まえだしはま》、水族館附近の海岸に漂着している事が発見されたので、同大学部内は目下非常な混雑を極めている。然《しか》るにその混雑に依って、その以前の昨十九日正午頃、同精神病学教室に於ける同博士独特の創設に係る「狂人の解放治療場」内に於て、一狂少年が一狂少女を惨殺し、引続いて場内にありし数名の狂人に即死、もしくは瀕死の重傷又は軽傷を負わしめ、これを制止せむとした看視人までも重傷せしめた事件が端《はし》なくも曝露したので、大学当局は勿論、司法当事者に於ても狼狽《ろうばい》措《お》くところを識《し》らず、目下極秘密裡に厳重なる調査を進めている。
狂少年鍬を揮《ふる》って[#「狂少年鍬を揮って」は本文より5段階大きな文字]
五名の男女を殺傷[#「五名の男女を殺傷」は本文より6段階大きな文字]
治療場内一面の流血※[#感嘆符三つ、626−10][#「治療場内一面の流血※[#感嘆符三つ、626−10]」は本文より3段階大きな文字]
昨十九日(火曜日)正午頃、事件勃発当時、同科担任教授正木博士は同科教授室に於て午睡しおり、同解放治療場内には平常の通り十名の患者が散在して各自思い思いの狂態を演じつつあったが、その時一隅に畠を耕していた足立儀作(仮名六〇)が午砲と同時に看護婦が昼食を報ずる声を聞いて、使用していた鍬を投げ棄てて病室に去るや、以前から儀作の動静《ようす》を覗《うかが》っていたらしい狂少年、福岡県|早良《さわら》郡|姪《めい》の浜《はま》町一五八六番地農業、呉八代の養子にして同女の甥に当る一郎(二〇)は突然、その鍬を拾い上げて、傍《かたわら》に草を植えていた狂少女、浅田シノ(仮名一七)の後頭部を乱打し、血飛沫《ちしぶき》の中に声も立て得ず絶息せしめた。かくと見た同治療場の監視人で柔道四段の力量を有する甘粕藤太《あまかすとうた》氏は、直ちに急を呼びつつ場内に駆け入ったが、時既に遅く、場内に居った政治狂の某、及《および》、敬神狂の某の二名は、少女シノを救うべく呉一郎に肉迫すると見る間に、前者は横頬を、後者は前額部を呉一郎の鍬の刃先にかけられ、朱《あけ》に染まって砂の上に昏倒した。この時、隙間《すきま》を発見した甘粕氏は一郎の背後から組み付いて、一気に締め落そうと試みたが、一郎の抵抗力意想外に強く、鍬を投げ棄てて甘粕氏の両腕を掴み、体量二十貫の同氏の全身を縦横上下に水車《みずぐるま》の如く振り廻しつつ引き離そうとするので、流石《さすが》の甘粕氏も必死となり、振り離されまいとのみ努力するうち、呉一郎が過《あやま》って狂女の作った落し穴に片足を踏み込んだ拍子に肩を隙《す》かされて同体に倒れると、身を替《かわ》す暇もなく本館軒下の敷石に肋骨を打ち付けて人事不省に陥った。この時同治療場の入口には甘粕氏の声を聞き付けた数名の男看護人、及小使、医員等が駆け付けおり、中には柔道の心得のある者も在ったが、再び治療場の中央に進み出で、落した鍬を拾い上げた呉一郎が、返り血を浴びたまま顔色蒼白となって四辺《あたり》を睥睨《へいげい》しつつ「俺の事業《しごと》を邪魔するかッ」と叫んだ剣幕に呑まれて一人も入場し得なくなった。その間《かん》に場内の一隅に眼を転じた一郎は顔色|忽《たちま》ち旧《もと》に帰り、ニコニコ然と微笑し初め、血に染まった鍬を取り直しつつそこに佇立していた二名の女に迫り、まず舞踏狂の少女某を畑の隅に追い詰めて眉間を打ち砕き、続いて最前から女王の姿に扮装しつつ平然として場内を逍遥し続けていた年増《としま》女に近づいて行ったが、同女が※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]声《れいせい》一番、「無礼者。妾《わらわ》を知らぬか」と一睨《いちげい》すると、呉一郎は愕然たる面《おも》もちで鍬を控えて立止ったが、「アッ。貴女《あなた》は楊貴妃様」と叫びつつ砂の上に跪座《きざ》した。その時に辛《かろ》うじて意識を回復した甘粕氏は苦痛を忍びつつ起き上り、場《じょう》の入口を開いて逃げ迷うていた狂人たちを外へ出すと、又も安心のためか気が遠くなって打ち倒れた。そのあとから呉一郎も鍬を片手に、片脇には最初の犠牲、浅田シノの死骸を軽々と引き抱えつつ、女王姿の狂女に一礼して流血|淋漓《りんり》たる場内を出で、悠々と自分の病室、七号室に帰って行ったが、皆手を束《つか》ねて戦慄しつつ遠くから傍観するばかりであったという。
狂少年の自殺[#「狂少年の自殺」は本文より5段階大きな文字]
平然たる正木博士[#「平然たる正木博士」は本文より5段階大きな文字]
この時急を聞いて駆け付けた正木博士は、極めて平然たる態度で医員を指揮しつつ暴れ狂う一郎の手からシノの死骸と鍬を奪い取り、一郎に狂人|制御《せいぎょ》用袖無しシャツを着せ、足枷《あしかせ》を加えて七号室に監禁する一方、被害者シノ以下四名の男女患者に応急の手当を施《ほどこ》したが、その中二名の男子患者はいずれも致命傷ではないが生死の程はまだ見込み立たず、又、二名の少女は共に頭蓋骨を粉砕されているので手の下しようなく、この旨《むね》それぞれの近親に急報した。同時に正木博士は単身七号室に引返し、前に監禁した一郎の様子を見に行ったところ、同人は病室の壁に頭を打ち付けて絶息しているのを発見し、急遽《きゅうきょ》医員を呼んだので又も大騒ぎとなった。而《しか》してその騒ぎが一先《ひとま》ず落着し、それぞれの処置を終ると間もなく、正木博士は同教室を出たものらしく、午後二時半頃、医員山田学士が「呉一郎は回復の見込あり」という報告を為《な》すべく、同教授を探しまわった時には、最早《もはや》、同科教室及病院内のどこにも正木博士の姿を発見し得なかったという。
解放治療は[#「解放治療は」は本文より5段階大きな文字]
予想通りの大成功[#「予想通りの大成功」は本文より5段階大きな文字]
と正木博士放言す![#「と正木博士放言す!」は本文より5段階大きな文字]
然《しか》るにその間《かん》に於て正木博士は同大学本部に到り、松原総長に面会して声高に議論していた事実がある。その議論の内容の詳細は判明しないが「狂人の解放治療の実験は今回の出来事に依《よ》って予想通りの大成功に終りました」と繰り返して放言し「同解放治療場は今日限り閉鎖を命じておきました。永々御厄介をかけましたが御蔭《おかげ》で都合よく実験を終りまして感謝に堪えませぬ。(註=同治療場は正木博士が総長の許可を得て、私費を以て開設していたもので、これに附属する雇員等も同博士から直接に給与されていたものである)なお私の辞表は明日提出致します。後《あと》の事は若林学部長に委託してありますから」云々と云い棄てて、呵然《かぜん》大笑しつつ扉《ドア》を押し開き、どこへか立ち去ったとの事で、総長室の隣室で聞いていた事務員連は皆、同教授の発狂を疑いつつ顔を見合わせつつ震え上ったという。
鼾声《かんせい》雷《らい》の如く[#「鼾声《かんせい》雷《らい》の如く」は本文より5段階大きな文字]
酔臥《すいが》して後《のち》行衛を晦《くら》ます[#「酔臥《すいが》して後《のち》行衛を晦《くら》ます」は本文より5段階大きな文字]
正木博士は総長室を出ると無責任にも死傷せる患者を医員連の看護に一任したまま帰途に就いた模様であるが、その途中どこかで飲酒泥酔したらしく、その夕方、福岡市|湊町《みなとまち》の下宿に帰って二三時間のあいだ雷《らい》の如き鼾声《かんせい》を放って熟睡していた。それから同夜九時頃になると「飯喰いに行って来る」と称して飄然《ひょうぜん》として下宿を出でそのまま行衛《ゆくえ》を晦《くら》ましたとの事であるが、仄聞《そくぶん》するところに依れば窃《ひそ》かに九大精神病科の自室に引返し徹宵《てっしょう》書類を整理していたともいう。
狂人を模倣した[#「狂人を模倣した」は本文より5段階大きな文字]
気味悪い屍体[#「気味悪い屍体」は本文より5段階大きな文字]
然るに本日午後五時頃、大学裏海岸を通りかかった沙魚《
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