のだ。極度に穢《けが》されると同時に、極度に浄《きよ》められている……飽く迄も悲しく、飽く迄も痛快な……。
……しかもその正木博士は、その呪われた研究がいよいよ最後の場面に這入ると同時に、若林博士から投げ与えられた彼《か》の調査書類を見ると流石《さすが》に胆を冷してしまった。その相手の恐るべき透徹した脳髄が、極めて遠廻しに……一分一厘の隙間《すきま》もなく自分を取り囲んでいる事を知った。そうしてその恐るべき明察の重囲に陥った苦しさに堪《た》え得ないままに、極めて卑怯な、且つ徹底的に皮肉巧妙な手段を以て逆襲を試みようとした。お手のものの患者の中から選み出した第三者の私を使って極めて冒険的な発表を決行させるべく、一切を私の前に告白した。
……が……その告白は初めから終りまで自分一人で計画して、タッタ一人で実行した事を二人に分割したものであった。その独特の機智を以て、相手の性質や行動を巧みに描写しつつ取り入れた、空前の巧妙精緻を極めた……そうして、それと同じ程度に浅薄幼稚を極めた思い付きであった。……その自縄自縛を切り抜けている一人二役式の思い付きの非凡さ……MとWの使い分けの大胆さ、巧妙さ……そうして、やはり旧《もと》の自縄自縛に陥ってしまっているそのミジメさ……愚昧《おろか》さ……。
[#ここで字下げ終わり]
「……アブナイッ……」
「馬鹿ッ……」
「アターッ……」
という怒号と悲鳴が、私の直ぐ背後《うしろ》から重なり合って飛びかかって来た。と同時に、
……ガラガラガラガラ……ガチャンガチャン……パーン……パチーン……
という激しい物音が、引き続いて私の足の下に起った。……ハッとして振り返ると、其処辺《そこいら》に立っている人が皆、私の顔を睨みつけている。……私の直ぐ背後《うしろ》には青塗の巨大《おおき》な貨物自動車が向うむきに停車している……くの字形になった自転車と、無残に壊れた空瓶の群が私の足下に散らばって、茶褐色の醤油がダラダラと漂《ただよ》うている。……浅黄色《あさぎいろ》の事業服《しごとふく》を着た大男が自動車の上から飛び降りて、タイヤの蔭に手を突込みながら、紙のように血の気を失くした印絆纏《しるしばんてん》の小僧を、眩《まぶ》しい日陽《ひなた》に引きずり出している……人々がその方へ駆け寄って行く……。
私はスタスタと歩き出しながら又も考え続けた。
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……トテモ恐ろしい……考え切れないくらい恐ろしい秘密だ。一千年前に死んだ呉青秀の悪霊と、現代に生きている正木博士の科学知識との闘争《たたかい》は今|酣《たけなわ》なんだ。
……しかも正木博士は、この研究に志した当初の一瞬間から、その良心の急所を呉青秀の悪霊に掴まれてしまっている。人間愛の中《うち》でも最大最高の親子の情と、夫婦の愛とを握り殺されてしまっている。そうして自分自身にはそれを気付かないで、どんな事があっても自分だけは決して呉青秀の悪霊に呪われまいと頑張り通して来ている……その呪われた心理状態を、色々な論文や、談話やチョンガレ歌なぞの形に現わして、次から次に公表して来ている……その一方には千世子を初めとして呉一郎、モヨ子、八代子と次から次に痛ましい犠牲を作り出しつつ、勇敢にもそれを踏み越え踏み越えして、科学の勝利を確信しつつ……呉青秀の悪霊を向うに廻しつつ、一心不乱に斬って斬って切り結んでいる。……ああ何という凄惨な、冷血な、あくどい[#「あくどい」に傍点]執念深い闘争《たたかい》であろう。……魂から滴《したた》り落ちる血と汗の臭気《におい》がわかるような……。
……けれども……。
……けれども……。
[#ここで字下げ終わり]
ここまで考えて来ると、私はパッタリと立ち止った。……賑やかな往来を見た。……不思議そうな目付きや顔付きで私を振り返って行く人々を見まわした。高い高い広告塔の絶頂でグルグルグルグルまわり出した光の渦巻を見上げた。その上に横たわる鮮肉のような夕映《ゆうばえ》の雲を凝視した。
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……けれども……。
……けれども……。
……よく考えてみると、私はまだその中から、私の過去の記憶の一片だも、思い出していないのであった――私は何者――という解答を自分自身に与える事が出来ない。憐れな健忘症の状態に止《とど》まっているのであった。私は今朝《けさ》あの七号室で眼を開いた時と少しも変らない……依然としてタッタ一人で宇宙間を浮游《ふゆう》する、悲しい、淋しい、無名の一|微塵《みじん》に過ぎないのであった。
……私は何者?……。
……ああ……これを思い出したら私はすぐにも呉青秀の呪いから醒めそうに思われるのに……あの絵巻物の魔力から切離されてしまいそうに思われるのに……どうしてもそれが思い出せない。いくら考えてもコレダケ[#「コレダケ」に傍点]が最後の、唯一の疑問として残って行く……。
……私は誰だろう……誰だろう……私の過去とこの事件の間にはドンナ因果関係が結ばれているのだろう……。
[#ここで字下げ終わり]
……とこう考えては今日の記憶を繰返し、くり返しては又考え直しつつ、暗雲《やみくも》に足を早めたり、緩《ゆる》めたりして歩いて行った。……遠く近くで打出す半鐘《はんしょう》の音……自動車ポンプの唸《うな》り……子供の泣き声、機《はた》を織る響《ひびき》……どこかの工場で吹出す汽笛の音……と次から次へ無意識の裡《うち》に耳にしながら、右に曲り、左に折れしていたが、そのうちに私は又、突然に土を蹴って立ち止った。気絶する程ドキンとして首を縮めながら立ち竦《すく》んだ。
……大変だ。あの絵巻物を、あのままにして来た。
……あの絵巻物のお終《しま》いの処にある千世子の筆蹟は誰にも見せてはならぬ……。
……正木博士が見たら発狂するか……本当に自殺するかも知れぬ……。
……タタ大変だッ……。
私は思わず飛び上った。そうしてその次の瞬間にはクルリとうしろを向いて、どこか判らぬ真暗《まっくら》になった田舎道を一直線に駆け出していた。
やがて明るい、美しい街筋に走り込んだ……。
間もなく暗いゴミゴミした横町を突き抜けた……。
三味線や太鼓の音の聞える眩《まぶ》しい通りを飛んで行った……。
電燈の並んだ防波堤を三方|海原《うなばら》の行き止まりまで来てビックリして引き返した……。
いろんな店の品物や、電車や、自動車や人ゴミが走馬燈《まわりどうろう》のように後《うしろ》へ後へと辷《すべ》った……。
汗と涙で見えなくなる眼をコスリコスリ元来た方へ元来た方へと急いだ……。
……眼が眩《くら》んで、息が切れて、そこいらが明るくなったり暗くなったりしたように思う。
……眼の前に灰色の鳥が無数に乱れ飛んでは消えて行ったように思う。
……いつの間にか往来に倒れているのを誰か扶《たす》け起してくれたように思う。そうしてそれを振り離して、又駆け出したようにも思う。
そんな事を繰り返して行くうちに私はとうとう何もかも判らなくなってしまった。何のために走って行くのか。どっちの方向へ行こうとしているのか考えようともしないようになった。時々見えたり聞えたりするものを夢うつつのように感じたが、終《しま》いにはその夢うつつさえ感じられなくなるまで恍惚として蹌踉《よろめ》いて行った……ように思う。
それから何時間経ったか、何日経ったか判らない……。
フト身体《からだ》中がゾクゾクと寒気立《さむけだっ》て来たようなので気がついて見ると、私はいつの間にか最前《さっき》の九州帝国大学精神病科の教授室に帰っていて、最前腰をかけていた回転椅子に、最前のように腰をかけて、大|卓子《テーブル》の緑色の羅紗《らしゃ》の上に両手を投げ出したまま突伏《つっぷ》しているのであった。
私はチョットの間、夢を見ているのではないかと疑った。先刻《さっき》……正午《ひる》頃にこの室を飛び出してから、方々を歩きまわって、見たり聞いたりした色々の出来事や、考えまわしたいろんな不思議な事……又はその間に感じたタマラナイ恐ろしさや息苦しさは、みんなここにこうして気絶している間に見た夢ではなかったかと疑ってみた。そうして気味わる気味わると自分の身のまわりを見まわして見たのであった。
私の服もシャツも、穿《は》いている靴も、汗と塵埃《ほこり》にまみれて真白になっている。両方の肱や膝は大きく破れたり泥まみれになったりして、ボタンが二つ程ちぎれて、カラーが右の肩にブラ下っている姿は恰度《ちょうど》、酔漢《よいどれ》と乞食との混血児《あいのこ》を見るようである。左の手の甲に真黒く血が固まり附いているのはどこを怪我したのであろう。別段に痛い処も痒《かゆ》い処もないが……併し眼と口の中が砂ホコリで一パイになっているらしく、瞼《まぶた》がヒリヒリして歯の間がガリガリするその不愉快さ……。
私はその眼と口を今一度、机の上に突伏せながら、ジット後先《あとさき》を考えて見たが、一体何しにここへ帰って来たのか、どうしても思い出せなかった。机の端に置き忘れて行った新しい角帽を凝視《みつめ》ながらその時の気持を思い出そう思い出そうと努力したが、この時に限って不思議な程、私の聯想力が弱っていた……何かしら非常に重大な品物か何かをこの室に忘れて、それを取りに帰って来たようにも思うのだが……と思い思いソロソロと頭を上げて前後左右を見まわして見ると、私の頭の上には大きな白熱電球が煌々《こうこう》と輝いている。
入口の扉《ドア》は半分|開《あ》いたままになっている。
しかし、大|卓子《テーブル》の上の書類は誰が片附けたものか、旧《もと》の通りにキチンと置き並べてあった。今朝《けさ》若林博士と一緒に這入って来て、初めて見た時の並び具合と一分一厘違わず……いじり散らした形跡なぞは微塵《みじん》もないように見えた。その横に座っている赤い達磨《だるま》の灰落しも、今朝最初に見た時の通りの方向を向いて、永遠の欠伸《あくび》を続けているのであった。
尤《もっと》もその中《うち》でもカンバス張りの厚紙に挟まった「狂人の暗黒時代」のチョンガレ歌や「胎児の夢」の論文なぞいう書類の綴込《つづりこ》みだけは、よく見ると確かに誰かが、ツイこの頃手を触れているらしく、少し横すじかいのX形に重なり合ったまま、投出されているようであるが、もう一つの方の、今日の午前中に正木博士が私の眼の前で塵を払ったに相違ない、青いメリンスの風呂敷包みの上には、やはり初めて見た時の通りに、灰色の細かい埃が一面に被《かぶ》さっていて、久しく人間の手が触れていない事を証拠立てている。そのほか大|卓子《テーブル》の上には、茶を飲んだ形跡《あと》もなければ、物を喰べた痕跡《なごり》もない。念のために、赤い達磨の灰落しを覗いてみると、中には葉巻の灰の一片すらなく、相も変らぬ大欠伸を続けたまま、黄金色《きんいろ》と黒の瞳でグリグリと私を睨み上げている。
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……不思議だ……きょうの午前中の出来事の大部分は夢だったのか知ら。……私は確かにあの風呂敷包みの内容《なかみ》を見たのだが……僅かの間に、あんなに埃がたかる筈はないわけだが……。
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私はやおら立上った。膝頭が気味悪くブラブラして脱け落ちそうになるのを、大|卓子《テーブル》の縁に突いた両手で辛《かろ》うじて支えながら、綿のような身体《からだ》を無理矢理に引立てた。ヒクヒクと戦《わなな》く指でメリンスの風呂敷包みを掴んで引寄せると、あとに四角い埃のアトカタがクッキリと残った。その結び目に落込んでいる埃の縞《しま》を今一度よく見たが、どう考えても最近に人の手が触れた形跡はない。そうして、その結び目を解いている中《うち》に、白い埃の縞は跡型もなく消え飛んでしまったのであった。
私は唖然となった。
眼の前の空間を凝視《みつめ》たまま、今朝《けさ》からの記憶を今一度頭の中で繰り返して見た。けれども、この風呂敷の中のものを正木博士から見せ
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