ソンナ常識で想像出来ない或る場合とか、又はその余程アタマの構造の違った人間とかが実際に出現して、由来記の後の白紙ばかりの処をズット先の方まで開いて見た事があったとしたらドウであろうか。早い話が、この絵巻物の筆者呉青秀は、黛夫人の白骨になった姿だけを、悠々と落ち付いて、一番おしまいの処に描いているような事がありはしまいか。……それを黛夫人の妹の芬《ふん》女を初め、呉家の代々の人々から正木博士に到るまで、唯、常識で考えて、この中に描いてある死像を六体限りとアッサリきめているような事がありはしまいか。……そうして更に、その中でも、この絵巻物が人を発狂させる程の魔力を持っていることを看破するような頭を持った人間だけが、そこまで気を廻して開いて見ているとしたら、どんなものであろう……もしそんな事が在り得るとしたら、そこに何かしら落ち込んでいないとはドウして云えよう。……しかもその落ち込でいる何かしら[#「何かしら」に傍点]は、たといそれがドンナに微細なものであろうとも、スバラシク重大な意味をあらわす事になるではないか。この絵巻物を使って、この事件を捲き起した犯人の正体をズバリと指す事になるかも知れないではないか。否。もしかするとこの絵巻物の神秘力を一挙に打ち破って、一切の迷いを真実に還《かえ》す程の力を持った者であるかも知れない。……少く共そこまで調べて見た上でなければ、この絵巻物の中から何も発見出来なかったとはどうして云えよう。
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……呉一郎は姪の浜の石切場でこの絵巻物の白い処を一心に凝視していたという。しかもその時は既に半分呉青秀、半分は呉一郎の気持ちでいたものと推定されているから果して、どちらの気持ちでそうしていたものか判然しないのであるが、しかしいずれにしても、この絵巻物の白い処をズットおしまいの処まで見て行った……そうしてそこに落ち込んでいる何ものかを発見したに違いない事は容易に推定出来ると思う。
……その証拠に呉一郎は「この絵巻物の預り主の正体を知っている[#「この絵巻物の預り主の正体を知っている」に傍点]」と仙五郎爺さんに話しているではないか……。
……どうして……どうして私は今の今までこの事実に気付かなかったのだろう……。
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 こうした考《かんがえ》を一瞬間のうちに頭に閃《ひら》めかした私は、又も、何者かに追駈《おいか》けられているような予感がして、チョット腕時計と電気時計を見較べた。どちらも十二時に四分前である。
 私の手は再び反射的に絵巻物を持ち直して白い処を捲き拡げ始めた。そうして最初の一分間かそこらは、できるだけ冷静に調べて行くつもりであったが、どこまで行っても唯真白いばかりの唐紙の上を一心に見つめて行かなければならぬ事が、判り切っているように思えるので、私は間もなく、涯《はて》しもない白い砂漠を、当《あて》もないのにタッタ一人で旅行させられているような苛立たしさと、馬鹿らしさを感じ初めた。自分一人で名探偵を気取っているような自分の心が見え透いて、何だか急に気がさして来た。やっとの思いで三尺ばかり行くともうウンザリしてしまった。
 それにつれて……かどうか知らないが、呉青秀が一番おしまいに白骨の絵を書いているかも知れない……という推量も怪しくなって来た。
 呉青秀が痴呆状態に陥ったものとすれば、自分が古今無類の馬鹿者であった、当もない忠義立てのために最愛の妻を犬死にさせた……という事を、義妹の芬女の説明でハッキリ思い当った刹那《せつな》に、茫然自失してからの事であろう。そうすればその数分間前、もしくはその数秒前までは正気でいた筈だから、もし云い忘れたのでなければ、一番おしまいに白骨の絵を描いたか如何《どう》かを説明していない筈はない。又、芬女にしてからが同じ事で、自分の恋い慕っている男が、大事な大事な姉を犠牲にして企てた事業の成績品を披《ひら》いて見ながら、千年も経った今日になって赤の他人の私が思い付く位の事を気付かずにいるような事は万に一つもありそうにない……こう思うと私は一遍に気が抜けてゲンナリとしてしまった。
 ……しかし……それでも私は、つまらない一種の惰力みたような、気の抜けた義務心に義務附けられたような気持と、今までの気疲れが一時に出初めてウトウト睡くなって行くような気持とを一緒に感じながら、あと一丈|許《ばか》りもあろうかと思われる白い処を両手で一気に繰り拡げながら、ほんの申訳《もうしわけ》同様に追いかけ追いかけ見て行った。そうしてやっと二丈か三丈位ありそうに思われる長い巻物の白いところを、最終の処まで追い詰めて来ると意外にも、黒い汚染《しみ》のようなものがチラリと見えたので、思わずドキンとして眼を瞠《みは》った。
 よく見ると、それは一番お終《しま》いの紺色の紙に、金絵具で波紋を描いたところから一寸《ちょっと》ばかり離れた個所に、五行に書かれた肉細い、品のいい女文字であった。これが小野鵞堂流《おのがどうりゅう》というのであろうか……

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子を思ふ心の暗《やみ》も照しませ
   ひらけ行く世の智慧のみ光り
[#ここで字下げ終わり]

  明治四十年十一月二十六日
[#地から2字上げ]福岡にて 正木一郎母 千世子
  正木敬之様 みもとに
 ……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………私の頭髪は皆、逆立《さかだ》った……。
 ……慌てて絵巻物を捲き返そうとしたが……手がふるえて取り落した……。
 ……と、その絵巻物がさながら生きているもののように、ひとりでに捲き拡がって、大|卓子《テーブル》の上から床の上に這い落ちて、リノリウムの上をクルクルクルと伸びて行くのを見ているうちに、ゾーッとして来て夢中になった私は、どうして扉《ドア》を開いたか、いつ廊下を走ったか判らぬまま階段を一散に駆け降りて、玄関から外へ飛び出した。
 トタンに非常な大音響が、私を追い散らすかのように、九大構内の松原に轟き渡った。
 それは午砲《ドン》であった。

 それは一つの奇蹟であったとしか思えない……或る目に見えぬ偉大な力が、空中から手を差し伸ばして、私を自由自在に引きずり廻していたとしか思えない。それほどに、不思議な出来事であった。
 私は九大医学部の正門を飛び出して後《のち》、どこをどう歩き廻ったかまるっきり記憶しない。そうして何を目標にして、又もとの九大精神病科の教授室に帰って来たものか全くわからない。
 ……背後から絶叫して来る自動車の警笛を聞いた。眼の前に急停車する電車の唸りに脅かされた。自転車のベルに追い散らされた。叱咤《しった》する人の声や吠えつく犬の声をきいた。グルグル廻る太陽と、前後左右に吹きめぐる風と、戦争のように追いつ追われつする砂ほこりを見た。雲の中からブラ下っている電柱を見た。軒の下まで鮮血を滴《したた》らしている絵看板を見た。地平線の向うが透明な山に続く広い広い平野を眺めた。何千、何万、何億あるか判らぬ夥《おびただ》しい赤煉瓦の堆積の中へ迷い込んだ。その紫色の陰影の中に、手足を蠢《うごめ》かして藻掻《もが》いている孩児《あかんぼ》の幻影《まぼろし》を見た。青澄んだ空の只中を黄色く光って行く飛行機を仰いだ……そのあとから白い輪廓ばかりの死美人の裸体像が六個《むっつ》ほど、行儀よく並んで辷《すべ》って行くのを見た。
 人の頭のように……又は眼の形……鼻の恰好……唇の姿なぞ取り取り様々の形に尾を引いて流るる白い雲……黒い雲……黄色い雲……その切れ目切れ目に薬液のように苦々しく澄み渡っている青い青い空……そんなものの下に冴えに冴え返る神経と、入り乱れて火花を散らす感情を包んだ頭の毛を、掻き※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》り、掻き乱しつつ……時々飛び上る程の痛みを前額部に感じつつ……眩《まぶ》しさと砂ほこりとでチクチク痛み出した眼をコスリコスリ、どこへ行くのか自分でも判らないまま、無茶苦茶によろめいて行った。
 ……川……橋……鉄道……赤い鳥居……その赤い鳥居の左右に、青白い顔をして立っている正木博士と若林博士の姿……終《つい》には駆け出したくなるのを押え付け押え付けして歩いて行った。
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…………何もかも真実であった……虚偽の学術研究でも、捏造《ねつぞう》の告白でもなかった。しかも、それは初めから終りまで正木博士がタッタ一人で計画して、実行して来た事ばかりであった。
……若林博士は何でもなかったのだ……。
……若林博士は初めから何も知らずに、正木博士の研究の手先に使われていたのだ。
……正木博士が行った巧妙奇怪を極めた犯罪に魅惑されて、自分から進んで調査をしているうちにいつの間にか正木博士の研究発表の材料を集める役廻りを引受けさせられていたのだ。正木博士が仕掛けておいた蹄係《わな》に美事に引っかかって、スッカリ馬鹿廻《ばかまわ》しにされていたのだ……。
……けれども若林博士はその結論として、あの絵巻物の最終に残されている千世子の筆蹟を発見した。あらゆる疑問を重ね合わせた最後の疑問の焦点となるべき、唯《ただ》一点を発見して私と同じようにビックリしたに違いない。そうして私と同じように一瞬間の裡《うち》に一切を解決したに違いない。すべてが正木博士の所業《しわざ》である事を発見したに違いないのだ。
……しかしそこで若林博士が執《と》った態度の如何に立派であった事よ……若林博士は、かくして事件の真相を奥の奥の核心まで看破すると同時に、その同窓同郷の友人として、又は学者としての有らん限りの同情と敬意とを正木博士に払うべく決心をしたのであった。そうしてその事件の内容の、要点だけを解らなくした。正しい調査記録を当の本人の正木博士に引き渡して、焼くも棄てるも、その自由に委《まか》した。……又は態々《わざわざ》茶菓子を持たして寄越して、「私は遠くに離れ退《の》いておりますから、どうか御心配なく御自由にお話し下さい」という心持ちを、云わず語らずの中《うち》に知らせたりした。
……「正木博士は一箇月前に自殺した」なぞいうような口から出任せな嘘を吐《つ》いたのも、やっぱりそんな意味の親切気から、立ち聞きをしている正木博士が、あの場面に出て来ないように……そうしてアンナ苦しい破目《はめ》に陥らないように……もしくは回復しかけている私の頭を、又も取り返しのつかぬ混乱に陥らせないように警戒するつもりで云った事であろう……あとで嘘だと判ってもいいつもりで……。
……実に男らしい尊い、申分《もうしぶん》のない紳士的態度を、若林博士は執《と》って来たのであった。
……然《しか》るにこれに反して正木博士は、この実験のために、その全生涯と、全霊魂とを犠牲に供して来たのであった。最初から自分一人でこの伝説に興味を持って、千世子を欺して、子供を生まして、絵巻物を提供させたのであった。そうして一切を顧《かえりみ》ずにこの計画を遂行したのであった。
……けれども千世子が、あの絵巻物を提供する時に、あの和歌と、年月日と、子供の名前と生れた処とを、その父親の名前と一緒に奥付の処に書込んで、意味深長な釘を刺している事を正木博士は夢にも気付かずにいたのだ。世にもミジメに深刻な母性愛と、ステキな才智の結晶とも見るべき彼女の悲しい頭の働らきが、そこまで行き届いていようとは露程《つゆほど》も想像し得なかったのだ。大胆な、眩惑的な、そうして飽く迄も天才的なその事業計画の中心に、唯《ただ》一点、致命的な疎漏《そろう》がある事を考え得なかったのだ。……そうして学術のため、人類のためと思って、神も仏も、血も涙も冷笑し蹂《ふ》み躙《にじ》って行きながらも、尚も、あとから追いかけて来る良心の苛責と人情の切なさに、寝ても醒めても悩まされ抜いて来たのだ……死人に心臓を掴まれたまま、跳ね廻って来たのだ。
……これが正木博士の全生涯な
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