出来事を一つ一つに離してみると、別に二人の博士が手伝わなくても、それぞれ勝手次第に、自由自在に起り得る事件ばかりではないか。それを二人の博士がお互いに相手の所業《しわざ》と思って疑い合っているお蔭で、一つに重なり合って見えているだけの事で、二人の博士の八釜《やかま》しい説明が付いていなければ、単純な二つの変死事件と、一つの発狂事件の寄り集まりに過ぎないじゃないか……。
……そうだそうだ。それに違いない。ソレに違いない。みんな根のない事件のブツカリ合いに過ぎないのだ。それを俺が気付かずにいたんだ。そうしてウンウン云って苛《いじ》め付けられていたんだ……馬鹿馬鹿馬鹿。馬鹿の、馬鹿の、大馬鹿揃いだったんだ……三人が三人とも……。
……ウッカリするとこの事件の犯人は、ヤッパリ俺になるのかも知れないぞ……。
[#ここで字下げ終わり]
「……アハハハハハハハハ……」
 私は室《へや》じゅうに反響する自分の笑い声を聞くと、フイと口を噤《つぐ》んだ。そうしていつの間にか頬杖を突いていた私の眼は、鼻の先の緑色の平面に転がっている絵巻物に、ピッタリと吸い寄せられているのに気が付いた。
 ……これが霊感というものであろうか……。
 ……私は不意にドキンとして、今一度回転椅子の上に座り直した。今までにない……何とも云えない神聖な気持に満たされつつ、恭《うやうや》しく絵巻物を取り上げると、ジッと見詰めて考えた。
 ……最後に残るものはこの絵巻物の魔力である。……すべては否定出来る。……しかしこの絵巻物の魔力ばかりは最後の最後まで否定出来ない……と……
 ……この事件は表面から見ると、すべてがノンセンスに出来上っていると云える。実に詰まらない小事件の寄せ集めに過ぎないと考えられるので、唯、その間に正木、若林の両博士が引っかかり合ってこの絵巻物の魔力を中心にして或る怪事業を成し遂《と》げようと試みているために、全体が非常に有意義な、戦慄すべき緊張味を示しているかのように見えるのであるが、しかし一歩退いて、この事件を裏から覗いてみると、実は二人の博士が二人とも、この絵巻物にコキ使われているのだ。自分たちが持っているだけの智慧も、度胸も、学問も、地位も、名誉も、生命《いのち》までも投げ出して、この絵巻物の魔力の前に三拝九拝しているのだ。その以外の人間の生死も、流転も、煩悶も、万一《もし》正木博士の話が真実とすれば、やはりこの絵巻物から引き起された事件に相違ないので、結局するところ、一切の摩訶《まか》不思議を支配する中心的の魔力は、この絵巻物一つから現われている事になる。すべての現実的事実と一切の科学的説明はノンセンス化し得るとも、この絵巻物の魔力ばかりは絶対に、何人《なんぴと》もノンセンス化する事が出来ない事になるであろう。
 ……だから……この絵巻物にしてもし霊があるならば、すべてを知っているに違いない。同時に自分自身の経歴を、何者よりもよく知っている筈である。……この事件にドンナ風に関係して来たか。どんな手順で呉一郎の手に落ち込んで来たかを一分一厘、間違いなく知っている筈である。そうして又、如何にして両博士を悩まし、且つ、私までも苦めているかという、その裏面の消息をも残らず心得ている筈である。
 ……この絵巻物の一巻は、今までの間に多くの人々を狂乱させ、迷動させ、互いに相《あい》殺傷させ合いつつ知らん顔をして来た。同様に現在の今日只今も、何一つ知らぬかの如く装《よそお》うて、私の掌《てのひら》に乗っかっている……が……しかし……。
 ……今から一千百余年前、大唐の玄宗皇帝の淫蕩は、青年紳士、呉青秀の忠志に反映して、六体の美人の腐敗像をこの一巻の中に顕現《あら》わした。……然るにその怪画像に籠った、怪芸術家の一念は、はるばる日本に渡って来て後《のち》までも、呉家の血統に絡み付いて、恐るべき因果の姿を現実に描きあらわすこと幾十代。しかも十数世紀を隔てた今日に到って、何等の血縁もない正木、若林両博士の手に移って、科学知識の無上の大光明に照らされる時節に遭《お》うても、遂《つい》にその魔力を喪《うしな》わないどころか、却《かえ》ってその怪作用を数層倍してその両博士の全生涯をアラユル方向に蹂躙《じゅうりん》し嘲弄している。のみならず今日只今、処もあろうに現代文化の淵叢《えんそう》であり権威である九州帝国大学のまん中の、まひるの真只中《まっただなか》に、ほとんど仮初《かりそ》めに私の指先に触れたと思う間もなく、早くもその眼に見えぬ魔手をさし伸ばして、私の心臓をギューギューと握り締めて、生血《なまち》と生汗《なまあせ》を絞りつくす程の苦しみを投げかけている……不可解の因縁を以て私に絡み付いて、不可思議の運命の渦に私を吸い込みつつある。……事実の真相に白い曇りを吹きかけつつ、その白い曇りの魅力にかけて私を散々に弄《もてあそ》んでいるではないか……思い出されない事を思い出させ、考えられない事を考えさせ、見えないものを見させようとしているではないか……消え失せた過去の記憶を求めさせ、自分でない自分の身の上を考えさせ、ありもしない事件の真相を無理やりに探させつつ、迷わせ、狂わせ、泣かせ、笑わせているではないか……。キチガイ地獄以上のキチガイ地獄の中にノタ打ち廻らせているではないか……。
 ……おお……何という恐ろしい魔力……。
 ……眼の前の空間を凝視して、ここまで考えて来た私の、大きく見開いた眼の底の大虚空に、あの死後五十日目の黛《たい》夫人の冷笑のまぼろしが、又もアリアリと現われて来た。
 それを私は消え失せるまで白眼《にら》み付けた。
 ……畜生……どうするか見ろ……。
 こう思うと私は、何かしらこの絵巻物の中から、一切の神秘と不可解とを、一挙に打ち破るに足る或る恐るべき秘密の鍵を発見しそうな予感に打たれつつ、唇を強く噛み締めた。二人の博士と私を苦しめている魔力の正体を一撃の下に曝露するに足るあるもの[#「あるもの」に傍点]……まだ何んにも気付かれずに残っている意外千万なあるもの[#「あるもの」に傍点]がこの絵巻物のどこかに潜んでいそうな一種の霊感に満たされつつ手早く絵巻物の紐《ひも》を解いた。その序《ついで》に腕時計を見ると、ちょうど十二時に十分前である。正面の電気時計は十一分前であるが、これはもう長い針がXの字の処へ飛ぼうとしている間際かも知れない。

 絵巻物の軸になっている緑色の石の処に息を吐きかけてみると、誰のともわからぬ指紋が重なり合って見えるようであるが、これは先刻《さっき》私がイジクリまわした跡だと気が付いたので苦笑しいしい巻物を取り直した。こんな迂濶《うかつ》な事では駄目だぞ……と自分で自分を冷罵しながら……。
 表装の刺繍と内部の紺色の紙の上に、細く光る繊維みたようなものが、数限りなく粘り付いているが、これは嘗てこの絵巻物を真綿か何かで包んでいた遺跡であろう。鼻に当てて嗅いでみると、黴臭《かびくさ》いにおいと、軽い樟脳《しょうのう》みたような香気が一緒になった中から、どこともなく奥床《おくゆか》しい別の匂いがして来るようであるが、なおよく気を落ち付けて嗅ぎ直して見ると、それは私が初めて嗅ぎ出したものではないかと思われる程の淡い、上品な香水の匂いに違いない事が解った。
[#ここから1字下げ]
……面白いナ。この調子で行くと、まだ色んな物が発見出来そうだぞ。この黴臭い匂いと樟脳に似た木の香《か》が弥勒様の木像の中で滲《し》み込んだものである事は、誰でも考え付く事であろうが、併し、この香水の匂いにはチョット気の付く者がいなかったであろう。そうしてこの床《ゆか》しい芳香は、この絵巻物の前の持主を暗示するものでなくて何であろう。
……占めた。もしもこの上に、まだ誰にも気付かれていない何物かが在ったら最後……それは一本の髪の毛でも煙草の屑でもいい……犯人を決定する有力な材料になるのだぞ……
[#ここで字下げ終わり]
 ……とさながらに自分自身が名探偵にでもなったように考えつつ、一層|勢付《いきおいづ》いて来た私は、絵巻物を頭の方から、逆に捲き込みながら、絵の処から由来記の文章の終っているところまで、裏表とも叮嚀に見て行ったが、先刻《さっき》は意地にも我慢にも正視出来なかった死美人の腐敗像が、今度は愛想《あいそ》もこそ[#「こそ」に傍点]もない只の顔料の配列としか見えなくなっているのには尠《すく》なからず驚かされた。而《しか》も、それは決して光線の具合でも何でもなかった。黛夫人の腐れ破れた唇から見え透く歯並の美しいところ、臓腑が瓦斯《ガス》を包んで滑らかに膨れ光っているところまで、細かに注意して見たが、何ともないものは、いくら見ても何ともない。私は人間の神経作用の馬鹿馬鹿しさにスッカリ張り合いが抜けてしまった。
 ……しかし……と思って尚《なお》よく注意してみると、初めの方は紙の地が幾分ボヤケているが、由来記のおしまいの方に近づけば近づく程、紙の表面がスベスベして上光りがしている。これは無理もない話で、最初に筆を執った呉青秀からして、初めの方ほど余計に開いたり捲いたりしたに決っている。又、その後《のち》この絵巻物を開いて見た呉家の先祖代々の者も同様で、最初私がした通りに、初めの完全な姿に近い所ほど念を入れて見たわけで、これは人情からいっても止むを得ないであろう……巻物の裏一面に何かキラキラ光る淡褐色の液体を塗ってある上に指の跡みたような白い丸いものが処々附いているようであるが、あまり滑らかでない紙の下から、粗い布目が不規則に浮き出しているのだから、何の痕跡《あと》だかハッキリと見分け難《がた》い。……結局、私がこの絵巻物から発見したものは、今の上品な香水の匂いだけであった。
 私は今一度、絵巻物に顔を近付けて、ほのかにほのかに何事かを私に話しかけるような香気を繰返し繰返し、腹の底まで吸い込んでみた……が……それは何という香水か知らないが、ホントウに上品な、清浄そのもののような香気と思えるばかりでなく、私の記憶の底の底から何かしらなつかしいような又は遣《や》る瀬《せ》のない夢のような……正直に云えば吸い付きたいような思い出を喚《よ》び起すらしい気持のする匂いであった。云うまでもなくそれは女性のソレらしく思われるが、併しそれが私の昔の恋人か、それとも母か姉か……というような見当がつく程まざまざとした感じではない。……私は念のために立ち上って、入口の扉《ドア》の横から自分の角帽を取って来て、その内側の香《にお》いと、絵巻物の香気とを嗅ぎ較べて見た。けれども私の帽子の内側は、いくら嗅いでも新しい羅紗《らしゃ》と、エナメル皮と、薄い黴《かび》の匂いしかしなかった。私が絵巻物のソレと同じ香水を使っていたという証拠にも参考にもならなかった。
 私は帽子を横に置きながら軽い嘆息をして、絵巻物を捲き返そうとしたが、又……ビクリ……とすると手を止めた。思わず空間を凝視しながら……。
 ……実に意外千万な暗示が頭の中に閃《ひら》めき込んで来たからであった……。
 ……姪の浜の石切場で、呉家の常雇《じょうやと》いの老農夫戸倉仙五郎が呉一郎を発見した時には、絵巻物の白い処ばかりを呉一郎が凝視していたという……その不可思議な事実のホントの意味が、チラリと判りかけて来たからであった……。

 ……というのは外でもない……。
 この絵巻物の中でも、おしまいの漢文の由来記が書いてある処までは、度々人間の手によって拡げられたり、捲かれたりしたものに違いない事がわかり切っている。従って、その一丈近い長さの間には、何かしらこの絵巻物を覗いた人間の身に附いたものが落ち込んでいるべき可能性のある処である……が併《しか》し、それと同時に、万人の中に一人でも、これから先の白い紙ばかりの処を、ズット先の方まで開いて見る人間があったとすれば、その人間の頭は、余程普通と違った頭でなければならぬ訳で、どちらかといえば、そんな人間は絶無に近い事が、常識で考えても直ぐに判るであろう。……とはいえ又、万一にも
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