の首をさし伸べて恐る恐る正木博士の顔を覗き込んだ。
「……ヘヘ……ヘイヘイ。ちっと遅うなりまして……ヘイ……。昨晩《ゆうべ》からほかの小使がみんな休みまして、今朝から私一人で[#「今朝から私一人で」に傍点]御座いますもんじゃけん。ヘイ。まことに……」
 老小使の言葉がまだ終らないうちに、正木博士は最後の努力かと思われる弱々しい力で、椅子からヒョロヒョロと立ち上った。死人のように力無い表情で私を振り返って、何か云いたそうに唇を引き釣らせつつ、微《かす》かに頭を左右に振ったようであったが、忽《たちま》ち涙をハラハラと両頬に流すと、私に目礼をするように眼を伏せて、又も頭をグッタリとうなだれた。そうして小使が明け放しておいた扉《ドア》の縁に捉まりながらフラフラと室を出て行ったが、今にも倒れそうによろめきつつ、入口の柱に手をかけて、ようやっと、廊下の板張りの上に立ち止まった。するとその後から追いかけるようにギイギイと閉まって行った扉《ドア》が、忽ちバラバラに壊れたかと思うほど烈しい音を立てると、室中の硝子《ガラス》窓が向うの隅まで一斉に共鳴して、ドット大笑いをするかのように震動し、鳴動し、戦慄した。
 そのあとを振り返って見送っていた小使は、やがてオズオズとこちらに向き直りながら、呆れたように私を見上げた。
「……先生は……どこか、お加減が、お悪いので……」
 私も最後の努力ともいうべき勇気を振い起して、無理に、泣くような笑い声を絞り出した。
「ハハハハハ。何でもないんだよ。今チョット喧嘩をしたんだ。……ツイ先生を憤《おこ》らしちゃったんだ。心配しなくともいいよ。じきに仲直りが出来るんだから……」
 と云ううちに両方の腋の下から、冷たい水滴がバラバラと落ちた。嘘を云うのがこんなにタマラないものとは知らなかった。
「……ヘエイ……左様《さよう》で御座いましたか。それならば安堵《あんど》致しました。はじめてあのようなお顔をばお見上げ申しましたもんじゃけん……ヘイヘイどうぞ御ゆるりと、なさいまっせえ。私一人で誠に行き届きまっせんで……ヘイ。先生はホンニよいお方で御座います。ようお叱りになりますが、まことに御親切なお方で……それに昨日からは又[#「それに昨日からは又」に傍点]、あの解放治療場で大層もない御心配ごとが出来まして[#「あの解放治療場で大層もない御心配ごとが出来まして」に傍点]、そのために今一人しかおりませぬ小使が[#「そのために今一人しかおりませぬ小使が」に傍点]、足を踏み挫きまして休んでおりますようなことで[#「足を踏み挫きまして休んでおりますようなことで」に傍点]……先生様もお気の毒で御座います……ヘイヘイ……ヘイ……どうぞ御ゆるりと……」
 禿頭《はげあたま》の小使は冷めた方の茶瓶を提《さ》げて、曲った腰を一つヤットコサと伸ばしつつ、ヨチヨチと出て行った。私は、私の魂を喰いに来た鬼が出て行くかのように、その後姿を見送った。

 小使が出て行ったあとの扉《ドア》がガチャガチャと閉まると、私は又、思い出したようにグッタリとなった。長い長いふるえた呼吸《いき》を腹の底から吐き出しながら、大|卓子《テーブル》に両肱を突いた。両掌《りょうて》でシッカリと顔を蔽《おお》うて、指先で強く二つの眼の球《たま》を押えた。頭の芯《しん》が乾燥《ひから》びたような、一種名状の出来ない疲労を覚えると共に、強く押えた眼の球の前にいろいろな幻像があらわれるのを見た。その中を縦横無尽に、電光のように馳けめぐる…… ?《インタロゲーションマーク》 ……を見た。そうしてその…… ?《インタロゲーションマーク》 ……を頭の中で押え付けよう押え付けようと焦燥《あせ》った。
 ……解放治療場の白い砂の光り……?……
 ……そのまん中の枯れ葉を一パイに着けた桐の木……?……
 ……その向うに突立っている呉一郎の姿……?……
 ……その向うの煉瓦塀の上の、屋根の上の、巨大な二本の煙突……?……
 ……その上から吐き出されて行く黒い煤烟《ばいえん》のうねりと、青い青い空の色……?……
 ……白いベッドの上に泣き伏した、白い患者服の少女の姿……?……
 ……緑の平面の上に開いたまま置き忘れられている若林博士の調査書類……?……
 ……紫色に渦巻く葉巻の煙……?……
 ……若林博士の奇妙な微笑……?……
 ……正木博士の鼻眼鏡の反射……?……
 ……?……?……?……?……?……???????……………………
 ……?…………
 私は頭を一つ強く振った。……そんなものをつなぎ合わせて、飽く迄も私を学術の餌食にしようとしている、眼にも見えず、手にも取られぬ因果の網を掻き払うかのように、眼を閉じたまま両手を動かした。
 ……狂人の暗黒時代を背景にして、私を捉えるべく糸を操っているその網の主というのは、学術界に棲息している二匹の大きな毒蜘蛛《どくぐも》である。曠古《こうこ》の精神科学者Mと、無双の名法医学者Wである。……その中でもMが私に投げかけた網の恐ろしかった事……私は今の今まで全力を挙げて抵抗して来た。全身の血を逆行させて、冷たい汗と、熱い涙のあらん限りを絞って闘って来た。そうして何かしらその相手に非常な打撃を与えて追い払ったようであるが、しかし、それと同時に私も力が尽きた。自分の行為の善悪を判断する力はおろか、この大テーブルから離れる元気さえなくなった。精神的にも肉体的にも、再び起つ勇気があるかないかすら解らない位疲れてしまっている。
 ……けれども……けれども私の背後には今一つの強敵が控えている。その強敵Wは、或はこの場の光景までも見透かして、冷笑しているかも知れぬ。それ程に抜け目のない、堅実な網を張って、私が落ち込んで来るのを待ち構えているに違いない。私自身は勿論のこと、あの正木博士すら気付かぬ位巧妙な、行き届いた、偉大な智慧の力でシッカリと私を押え付けて、血も涙も、骨も抜き取って、虚偽と穢《けが》れによって作り上げられた学術の犠牲に供すべく、刻一刻に私の背後から迫りつつある事がヒシヒシと全神経に感じられる。
 ……あの蒼白い、大きな、毛ムクジャラな手に掴まれる位なら、私は正木博士に反抗するのじゃなかった。私は何故かわからぬけれども、若林博士よりも正木博士の方が好きだ。二人とも私を餌食にしようとしている学界の毒蜘蛛であるにしても、私は正木博士の方が何となく懐かしくて親しみ易い気がする。今でも正木博士が引返して来て唯一言……
「吾輩が悪かった……」
 と云ってくれさえすれば、私は一も二もなく喜んで、何もかも忘れて正木博士の奴隷になるかも知れぬ。若林博士の卑怯さを発《あば》いて、正木博士に同情した記録を発表するかも知れぬ。……若林博士のあの蒼白い手で、私の心臓を握られたくないために……。
 しかし……四囲《あたり》はシンとしている。正木博士が引返して来るような音も聞えぬ。……運命を待つよりほかはない。その運命と闘う力をなくしたまま……。
 ああ……どうしよう……。
 私の呼吸が又一しきり胸を圧迫して来た。
 そうして、やがて又、ふるえ、わななきつつ、力無く静まって来た。……身体《からだ》中が空虚になったような……耳の穴の奥だけがシイ――ンと鳴るような……。
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「…………………………
 …………………………
 黒《く》ウろい黒《く》ウろいまっ黒い
 トットの眼玉を喰べたらば
 白《し》イろい白《し》イろい真白い
 ホントの眼玉が飛び出した
    ポンチキポンチキポンチキチ……

 白《し》イろい眼玉は可愛いよ
 お口の中から飛び出して
 お箸《はし》の先から逃げ出して
 コロコロコロコロ転がって
 どこかへ見えなくなっちゃったア
    ラアラアラアラアポンチキチ……

 白《し》イろい眼玉は可愛いよ
 トットの眼玉は可愛いよ
 ホントの眼玉は可愛いよ
 可愛い可愛い可愛いよオ――
    ラアラアラアラアポンチキチ……
    ポンチキポンチキポンチキチ……

 可愛いヨオ――可愛いヨオ――
 …………………………」
[#ここで字下げ終わり]
 という最前の舞踏狂の少女の澄み切った声が、南側の硝子《ガラス》窓越しに洩れて来る……。
……突然……一つの素晴らしい考えが頭の中に閃《ひら》めいた。私の頭の中心にコビリ付いていた千万無数の…… ?《インタロゲーションマーク》 ……が一時にパッと光って消え失せたような気がした。器械人形のように顔から手を離して、廻転椅子の上に腰かけ直した。正木博士が出て行った入口の扉《ドア》を見た。正面の壁にかかった黄金と黒の二つの額ぶちを見た。眼の前に散らばっている様々の書類を見まわした。秋の正午に近い光りが、室《へや》中一パイに籠《こも》った葉巻の煙を青白く透かして、色々な品物の一つ一つにハッキリした反射を作っているのを見た。
「……ナア――ンダ……ナア――ンのコッタイ。……これあ……アッハッハッハッハッハッハッハッハッ……」
 私は両方の横腹から、たまらない可笑《おか》しさがコミ上げて来るのを両手で押え付け押え付けして笑い続けた。
[#ここから1字下げ]
……馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿……大馬鹿の大馬鹿の三太郎だったんだぞ俺……アッハッハッハッハッ……
……若林博士も、正木博士もそうなんだ。イヤ、俺よりもモットモット念入りの大馬鹿なんだ。俺たちは三人共、飛んでもない誤解をし合っているのだ。何という馬鹿馬鹿しい間違いだ、……これは……。
……誰が千世子を殺したか。誰が呉一郎に絵巻物を渡したか。……誰が呉一郎の本当の親なのか。WかMか……それとも外にモウ一人チャンと控えているのか……そんな謎はまだ、丸っきり一つも解かれていないのだ。みんないい加減な第三者の仕事かも知れないのだ……
……否々、この事件には初めっから一人も犯人がいないのに違いない。この事件の内容というのは偶然に離れ離れに起った、原因不明の出来事の色々を、一つに重ね合わせで覗いたものに過ぎないのだ。千世子の縊死《いし》だって……斎藤博士の溺死だって……呉一郎の発狂だって……みんな自分勝手にし出かした事かも知れないのだ……でなければ、こんなに神秘的な、不可解な、底の知れない事件があり得る筈はないじゃないか。
……それを二人の博士が感違いをして、無理に一枚に重ね合わせて、一つの焦点を作ろうとしているのだ。お互いに相手を恐れて……自分の大切な研究材料を相手に取られまいとして、色眼鏡をかけて睨み合ったために、何もかも相手がタッタ一人でして来た事のように見えたに過ぎないのだ。
……可哀相に……めいめい自分で覚えがあり過ぎるために……否……否……今まで手応えのある相手を発見し得なかった古今無双の二つの脳髄同志が、ここで互いに好敵手を発見し合って、本能的に戦闘慾を発揮し初めたんだ。力一パイ四ツに取組んで、動く事が出来なくなっているのだ。
……アハ……アハ……こんな馬鹿馬鹿しい……間の抜けた……トンチンカンな争いが又とこの世にあり得ようか。事件そのものの内容よりも、二人の博士の研究と争闘の方が、ズット真剣で、深刻で恐ろしいのだもの。もしかすると学者なんてものは皆、こんな詰らない事ばかりを本気になって争い合っているものじゃないかしら……。
……しかし考えて見れば無理もないだろう。あの呉一郎と、この俺とはドウしても双生児《ふたご》としか思えないくらい肖通《にかよ》っているんだもの。おまけにあの呉モヨ子と、この絵巻物の死美人像とが、瓜二つどころじゃない。ソックリそのままなんだもの……こんなに在りそうにもない二重の偶然同志がこの地方で、しかも同じ血統《ちすじ》の中に固まり合っているのを発見したら、誰だってビックリするに違いないだろう。そうしてこれには何か深い原因《わけ》があるに違いないと思って、最初から色眼鏡をかけて研究を初めるだろう。……本人はそんなつもりでなくても、研究を初める気持が既に色眼鏡をかけたのと同じ気持だから仕方がない。その証拠には、この事件を組み立てている色々な
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