症』から離脱出来ないであろう事が、やっと今になって判ったのだ。それがモヨ子さんと君自身とを救い得るタッタ一つの最後の手段である事が、最前からの色々な実験の結果やっと判明して来たのだ。……むろん、これは決して君を無理に押付るために云うのではない。君自身の堅固な童貞生活から来ている現在の自家障害――『自我忘失症』を回復させるためには、これが最有効な、最後の最後の取っときの精神科学的療法である。この療法の原理原則に関しては、精神分析屋のフロイドでも、性科学専門のスタイナハでも全然吾輩と説を同じくしているのだから……。
 ……こうした最後的な治療手段の効果が、二と二を加えて四になる以上に的確なことは、直ぐにわかる。論より証拠だ。吾輩の言葉の全部が虚構でない証拠は、彼女と君とが幸福な結婚生活に入ると同時に、回復して来る君の記憶力の中に、無量無辺に思い出されて来るであろう。今までの神秘と怪奇とを極めた出来事の数々が、決して彼《か》の解放治療場の片隅で微笑している、君とソックリの美青年に関係した事でない事が、君自身にはっきりと自覚されることによって証明されるであろう。それ等の驚くべき出来事のすべてが、直接に君自身と関係を持った話であることが、殆ど電燈《でんき》のスイッチを拈《ひね》るのと同様な鮮やかさで、一時に判明して来るであろう。……何故《なにゆえ》かと云うと、君は彼《か》の令嬢との新婚生活に入ると同時に、現在、君の頭の中に鬱積、緊張して、そうした自家障害を与えているその生理的の原因から解放される事になるのだから……今まで、どうしても思い出し得なかった過去の記憶の全部を、一時にズラリと思い出すにきまっているのだから。同時に現在、君が疑い、迷い、苦しんでいる事件の真相を裏の裏まで看破し、思い出して……成る程……そうであったかと長大息するに違いないのだから……そうして物質的にも精神的にも恵まれた、真実に幸福な家庭生活に入ると同時に、他人に頼まれる迄もなく、君自身の理智に立脚した公平な立場から観察した、この事件の真実の記録を学界に発表して、吾輩と若林の苦心努力の実情を正義の審判にかけると同時に、その発表によって、現代の脱線的な邪悪文化に一大転期を劃さずにはおられないであろうことを、吾輩は今一度、吾輩の専門の名にかけて……君とモヨ子さんとの名誉と幸福のために……」
「……いけませんッ……」
 私は突然に非常な力で跳ね起きた。火のような憤激に、全身をわななかせつつ廻転椅子から立上った。正木博士の口をアングリと開いて、呆気《あっけ》に取られている顔を見下しつつ、ギリギリと歯切《はぎし》りをして、唇を震わした。
「……イ……イ……嫌です。……ま……真平《まっぴら》御免です。……ゼゼ……絶対にお断りします」
「……………」
 私は先刻《さっき》から一所懸命に我慢していた、あらゆる不愉快な思いが、口を衝《つ》いて迸《ほとばし》り出るのを止める事が出来なくなった。
「……ボ……僕は精神病者《キチガイ》かも知れません。……痴呆《バカ》かも知れません。けれども自尊心だけは持っています。良心だけは持っているつもりです。……たとい、それが、どんなに美しい人でありましょうとも、僕自身にまだ、誰の恋人だか認める事が出来ないような女と、たかが治療のために一緒になるような事は断じて出来ません。法律上、道徳上、学術上、間違いない事がわかっていても、僕の良心が承知しません。……たといその女の人が、僕を正当の夫と認めて、恋い焦《こが》れているにしてもです。僕自身に、そんな記憶がない限り……そんな記憶を回復しない限り、どうしてそんな浅ましい、恥知らずな事が出来ましょう。……況《ま》して……まして……こんな穢《けが》らわしい研究の発表なんぞ……ダ……誰が……エエッ……」
「……マ……待て……」
 正木博士が座ったまま、真青になって両手を上げた。
「……が……学術のために……」
「……ダ……駄目です……駄目です……絶対に駄目です」
 私の眼から、涙が止め度もなく溢れ流れはじめた。そのために正木博士の顔も、部屋の中の光景もボンヤリして見えなくなったが、それを拭いもあえずに私は叫び続けた。
「学術が何です。……研究が何です。毛唐の科学者がどうしたんです。……僕はキチガイかも知れませんが日本人です。日本民族の血を稟《う》けているという自覚だけは持っています。そんな残忍な……恥知らずな……毛唐式の学術の研究や、実験の御厄介になるのは死んでも嫌です。……学術の研究というものが、どうしてもコンナ穢らわしい、恥知らずな事をしなければならないものならば……そうして僕が是非ともコンナ研究に関係しなければならない人間ならば、僕はそんな過去の記憶と一緒に、この頭をブッ潰してしまいます……今……直ぐに……」
「……ソ……ソ……そんな訳じゃない……実はお前は……君は呉一郎の……呉一郎が……」
 こう云ううちに正木博士の態度が、シドロモドロに崩れて来た。天地が引っくり返っても平気の平左《へいざ》と思われたその大胆不敵な、浅黒い顔色が、みるみる真赤になり、又たちまち真青に変化した。中腰になって両手を伸ばしつつ、私の言葉を遮《さえざ》り止めようとして狼狽《ろうばい》している態度が、新しく新しく湧き出る私の涙越《なみだごし》にユラユラと揺らめき泳いだ。しかし私は皆まで聞かなかった。
「嫌です嫌です。僕が呉一郎の何に当ろうが……どんな身の上だろうが同じ事です。誰が聞いたって罪悪は罪悪です」
「……………」
「先生方は、そんな学術研究でも何でも好き勝手な真似をして、御随意に死んだり生きたりなすったらいいでしょう……しかし先生方が、その学術研究のオモチャにしておしまいになった呉家の人達はドウなるのですか……呉家の人達は先生方に対して何一つわるい事をしなかったじゃありませんか。そればかりじゃありません。先生方を信じて、尊敬して、慕ったり、便《たよ》り縋《すが》ったりしているうちに、その先生方に欺瞞《だま》されたり、キチガイにされたりしているじゃないですか。この世に又とないくらい恐ろしい学術実験用の子供を生まされたりしているじゃないですか。そんな人々の数えても数え切れない怨みの数々を、先生方は一体どうして下さるのですか。……死ぬ程、愛し合っている親子同志や恋人同志が、先生方の手で無理やりに引離されて、地獄よりも、非道《ひど》い責苦を見せられているのを、先生方はどうして旧態《もと》に返して下さるのです。唯、学術の研究さえ出来れば、ほかの事はドウなっても構わないと仰言《おっしゃ》るのですか」
「……………」
「御自分で手を下しておいでにならなくとも、おんなじ事ですよ。その罪の告白を、他人に発表させておけば、それで何もかも帳消しになると思っておいでになるのですか……良心に責められているだけで、罪は浄《きよ》められると思っておいでになるのですか」
「……………」
「……あんまり……あんまり……非道《ひど》いじゃありませんか」
「……………」
「……セ……先生ッ……」
 と叫ぶと眼が眩《くら》みそうになった私は、思わず大|卓子《テーブル》の上に両手を支えた。新しく湧き出す熱い涙で何もかも見えなくなったまま、呼吸《いき》を喘《はず》ませた。
「……後生ですから……後生ですから……その罰を受けて下さいませんか……そうして……そんな気の毒な人達の犠牲を無駄にしないようにして下さいませんか……喜んで……心から感謝してその研究の発表を、僕に引受けさして下さいませんか」
「……………」
「その罰の手初めには、若林博士を僕が引張って来て、先生の前で謝罪させます。恋の怨みだったかドウか……どうしてコンナ恐ろしい……非道い事をしたか……白状させます……」
「……………」
「……それから先生と、若林博士とお二人で、被害者の人達に謝罪して下さい。その斎藤先生の肖像と、直方《のうがた》で殺された千世子の墓と、それからあの狂人《きちがい》の呉一郎と、モヨ子と、お八代さんの前に行って、一人一人になすった事を懺悔《ざんげ》して下さい。学術研究のためだった……と云って、心からお二人であやまって下さい……」
「……………」
「お願いというのはそれだけです。……ドウゾ……ドウゾ……後生ですから……僕が……こうして……お願いしますから……」
「……………」
「……ソ……そうすれば……僕はドウなっても構いません。手でも足でも、生命《いのち》でも何でも差上げます。……この研究を引継げと仰言《おっしゃ》れば……一生涯かかっても……一切の罪を引き受けても……」
 私はタマラなくなって両手で顔を蔽《おお》うた。その指の間を涙が迸《ほとばし》り流れた。
「……コ……コンナ非道い……冷血な罪悪……ああ……ああ……僕はモウ頭が……」
 私は大|卓子《テーブル》の上に崩折《くずお》れ伏した。声を立てまいとしても押え切れない声が両手の下から咽《むせ》び出た。
「……ス……済みませんが……僕に……みんなの……か……讐《かたき》を取らして下さい……」
「……………」
「……この研究を……シ……神聖にして下さい……」
「……………」
「……………」
 ……コツコツ……コツコツ……と入口の扉《ドア》をたたく音……。
 ……私はハッと気が付いた。慌ててポケットからハンカチを取り出して、涙に濡れた顔を拭いまわしながら、正木博士の顔を見上げると……ギョッとして息が詰った……。
 それは昂奮の絶頂まで昇り詰《つめ》ていた私の感情を、一時に縮み込ませてしまった程恐ろしい、鬼のような形相であった。……瀬戸物のように血の気を喪《うしな》った顔面《かお》一パイに、蒼白い汗が輝やき流れて……額《ひたい》の皺を逆さに釣り上げて……乱脈な青筋をウネウネと走らせて……眼をシッカリと閉じて……義歯《いれば》をガッチリと喰い締めて……両手でシッカリと椅子の肱に掴まりながら、首と、肱と、膝を、それぞれ別々の方向にワナワナとわななかせて……。
 ……コトコトコトコトコトコトと扉《ドア》をたたく音…………。
 ……私はドタリと廻転椅子に落ち込んだ。
 何かの宣告のような……地獄の音《おと》づれのような……この世のおわりのような……自分の心臓に直接に触れるようなそのノックの音を睨み詰《つめ》て聾唖者《おし》のように藻掻《もが》き戦《おのの》いた。……扉《ドア》の向うに突立っている者の姿を透視しようとして透視出来ないまま……救援を叫ぼうにも叫びようがないまま……。
 コツコツコツコツコツ……。
 ……と……やがて正木博士が、全身の戦慄を押し鎮めるべく、一層烈しく戦慄しながら、物凄い努力を初めた。……すこしばかり身体《からだ》をゆるぎ起して、桃色に充血した眼を力なく見開いた。灰色の唇をふるわして返事をすべく振り返ったが、その声は、痰《たん》に絡まれたようになって二三度上ったり下ったりしたまま、咽喉《のど》の奥の方へ落ち込んで行った。……と思ううちに見る見る椅子の中に跼《かが》まり込んで死人のようにグッタリと首を垂れてしまった。
 コツコツコツ……コトコトコトコト……コツンコツンコツンコツン……。
 私はこの時、自分で返事をしたような気がしない。何だか鳥ともつかず、獣《けもの》ともつかぬ奇妙な声が、どこからか飛び出して、室《へや》中に響き渡ったように思った。それと同時に頭の毛が一本一本にザワザワと走り出したように感じたが、そのザワザワが消えないうちに、入口の扉が半分ばかり開かれると、ガタガタと動く真鍮《しんちゅう》のノッブの横合いから、赤茶色のマン丸いものがテカテカと光って現われた。それは最前カステラを持って来た老小使の禿頭《はげあたま》であった。
「……ヘイヘイ……御免なさいまっせい。お茶が冷えましつろう。遅うなりまして……ヘイヘイ……ヘイ……」
 と云い云いまだ湯気を吹いている新らしい土瓶を大|卓子《テーブル》の上に置いた。そうして只さえ弓なりに曲った腰を一層低くして、白く霞んだ眼をショボショボとしばたたきながら、皺だらけ
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