界空前の実験は決行された。そうしてその結果の全部が、この通り吾輩の前に投出《なげだ》された」
「……………」
「……だから……目下のところWとMの二人は同罪である。同罪でないと云っても、云い免れるだけの証拠がない」
「……………」
「……だから吾輩は覚悟を決めた。そうして君が先刻《さっき》から読んだその心理遺伝の附録の草案によって直方《のうがた》事件の真相までも、すっかり蔽い隠してしまった。ロクロ首や、屍体鬼《しびとつかみ》までも引合いに出して、苦辛惨憺を重ねた結果、学術研究の参考材料として公表しても、無罪と云える程度にまで辻褄《つじつま》を合わせておいた」
「……………」
「……そんな裏面の消息を、唯二人の間の絶対の秘密として葬り去るべく……怨みも、猜《そね》みも忘れて……学術のために……人類のために……」
「……………」
「……これも矢張《やは》り菩提心《ぼだいしん》と云えば云えるであろう。……あの呉一郎の狂うた姿を見て、たまらなくなったからであろう……」
正木博士の声は、ここまで来ると急に涙に曇りつつ、机の上に突伏したままの私の真正面に近付いて来た。……ドッカリと廻転椅子に腰を卸す音がした。……と……間もなくカラリと鼻眼鏡を大|卓子《テーブル》の縁に置いて、ポケットからハンカチを取出して、涙を拭う気はいである。
……けれどもこの時……何故だか解らないけれども、私の全身を伝わっていた戦慄が、一時にピッタリと止まってしまった。その代りに、今までとは丸で違った、何ともいえない不愉快な感情が、正木博士の涙声に唆《そそ》られて、腸《はらわた》のドン底からムラムラと湧き起って来るのを、どうする事も出来なかった。そうしてただ、今までの通りの姿勢で、殆ど形式的に机の上に突伏しているような……正木博士に対して「何とでも饒舌《しゃべ》るなり、泣くなり勝手になさい。私とは全然無関係の事ですけれども、聞くだけはイクラでも聞いて上げますよ」と云ってやりたいような、どこまでも冷淡な、赤の他人じみた気持になってしまった。これは後から考えても不思議千万な心理状態の変化であった。自分自身にも、どうしてソンな気持に変ったか解らなかったが、しかし私はそのまんま、身動き一つしないで突伏していたので、自分の話に夢中になっている正木博士には、私のそんな気持の変化を気取《けど》られよう筈がなかった。
正木博士は、そうしている私の前で、軽い咳払いみたようなものを一つして声を繕《つくろ》った……と思うと今度は調子を改めて、極めて荘重な語気になった。私の頭の上から圧付《おしつ》けるように、一句一句を切って云った。
「……唯……ここに一人……君という人間が居る……」
「……………」
「君は吾輩と若林とに選まれた、この事業の後継者である。……否……吾輩や若林は実を云うと、この事業の最後の成績を社会に公表し得べき資格を持った人間でない。ただそこに居る君だけが、その神聖なる使命を担《にな》うべく選まれて、吾々の前に差遣《さしつか》わされた唯一、無上の天使である。自分でその天命の何たるかを知らない……徹底的に何も知らない……ホントウの意味の純真無垢の青年である」
「……………」
「……というのは、ほかでもない。吾輩も若林も、正直正銘のところを告白すると、この事件の真相をコンナ風に偽った形にして、自分達の手で発表したくない。出来得べくは自分達の死後に、然《しか》るべき第三者の手で、真実の形に直して発表してもらいたい……というのが吾々二人の畢生《ひっせい》の願である。純誠無二の学者としての良心から出た二人の希望である。……だから吾輩と若林とは、云わず語らずのうちに協力一致して、この事件に重大な関係を持っている君の頭脳《あたま》を回復すべく、全力を挙げているのだ。……今にも君が君自身の過去の記憶を回復して、以前の意識状態に立帰り得たならば、必ずやこの仕事の後継者が、君以外に一人もいない事を、明白に自覚してくれるであろう。そうして君が死ぬ程の驚愕と感激の裡《うち》に、この空前絶後の大研究の発表を引受けて、全人類を驚倒、震駭《しんがい》させてくれるであろう……その発表によって太古以来の狂人の闇黒《あんこく》時代を一時に照し破り、全世界のキチガイ地獄をドン底から顛覆、絶滅させて、この唯物科学万能の闇黒世界を、一斉に、精神文化の光明世界にまで引っくり返してくれるであろう。……と同時に、それに引続いて来るべき精神科学応用の犯罪の横行時代を未然に喰い止めて、彼《か》の可憐の一少年呉一郎その他の犠牲を、無用の犠牲として葬り去らないのみならず、全人類の感謝と弔慰とを彼等に捧げさしてくれるであろう……そうして最後に……永劫《えいごう》消ゆる事のない極地の氷のような『冷笑』を、吾々二人の死後の唇に含ませてくれるであろう事を確信しつつ、幾何《いくばく》もない余命を一|刹那《せつな》に縮めつつ、努力しているのだ」
「……………」
「……とはいえ……これは現在の君の頭から考えると、実に不可解と不合理とを極めた註文と思われるかも知れない。吾輩と若林とが、あの呉一郎と瓜二つによく似ている君を換え玉か何かに使って、虚偽の学術研究を完成して、それを又、虚偽の方法で発表しようと試みているかのように誤解されるかも知れない。しかし……しかし……吾輩は天地の霊に誓って云う。それは吾々二人の間の私的の駆引にこそ凡百《あらゆる》虚偽が含まれておれ、その行っている学術の実験と、それによって証明さるべき学理、原則の中には、一点、微塵《みじん》の虚偽も含まれていないのだ。ただ、その内容とは全然無関係な発表の形式方法にだけ、止《やむ》を得ない虚偽が混っていた訳であるが、それもタッタ今、真実の形に訂正して、君に報告してしまったばかりのところである。
……だから……これだけは、どこまでも吾々を信じてもらいたい。……君は疑いもなくこの実験の経過を、真実の形に直して発表すべき、唯一の責任者なのだ。すなわち若林の調査書類と、吾輩の遺言書とを、一まとめにしてこれに一つの結論をつけて、学界に発表すべく、神様の思召《おぼしめし》によって選まれた無二の資格者である事が、君の過去の記憶の回復と共に判明するであろうことを、吾輩も若林も信じて疑わないのだ……否、吾輩と若林ばかりでない。一般社会の人々とても、万一君の姓名を知り得るような事があったならば……君の名前は既に、今までの話の中に幾度となく出て来た名前で、世間にも相当記憶されている筈であるが……単にその名前を聞いただけでも、すぐに君より以外に、この仕事の適任者が絶対にいない事を確認するであろう事が、火を睹《み》るよりも明らかに解り切っているのだ。……だから吾輩は、君が精神状態を回復しかけている事がわかると同時に、いよいよ安心してこの遺言書を書く事が出来たのだ。
……しかし吾輩が自殺の決心をしたのは全く別の理由からである。それは昨日の正午を期して、あの解放治療場内に勃発した大悲惨事が、吾輩の責任感を刺戟したからでもなければ、又は、この日が偶然に、斎藤先生の祥月《しょうつき》命日に当っていたために、一種の天意とか、無常とかを観じたからでもない。正直なところを云うと吾輩は人間がイヤになったのだ。こんな研究でもしていなければ、ほかに頭の使い道のない人間世界の浅薄、低級さに、たまらない程うんざりさせられてしまったのだ。
……それもこの出来|損《そこ》ないの世界を、新発明の火薬で爆発させるとか、蛙の卵から人間を孵化させるといったような、一端《いっぱし》、気の利いた研究ならまだしもの事、心理遺伝なんていう三つ児にでもわかる位、簡単明瞭な原則をタッタ一つ証明するために、足が棒になって、脳味噌が石になる程の苦労を重ねなければならぬ。あらゆるタチの悪い因果因縁に、執念深く附纏われて、それこそ地獄の苦しみに堕《お》ちながら、やっと真理の証明が出来たにしても、その報酬として何が残るか。妻子|眷族《けんぞく》に取捲かれてシンミリした余生を送るどころか、その研究が世に出る時は、自分の一生涯の破滅の時だ。飛んでもない野郎だというので、踏んで蹴られて、唾液《つば》を吐きかけられる時だ。……ザマア見やがれとはこの事だ」
「……………」
「……こんな見っともない、ダラシのない結論になって来る事を、今日がきょうまで気付かずに来た吾輩は、つくづく自分の馬鹿さ加減に愛想《あいそ》が尽きたのだ。人間も学者も同時に御免|蒙《こうむ》って、モトのアトムに帰りたくなったのだ。当の相手の前に一切をタタキ付けて……」
「……………」
「……こうした吾輩の現在の気持は、無論、若林の目下のソレとは全然正反対でなければならぬ。若林はあくまでもこの実験を固執して徹底的に吾輩と闘うべく腰を据えているに違いないのだ。……殊に若林は自分自身が結核に取付かれて、余命|幾何《いくばく》もない事を知っている。……だからこの事件の最後の結論の発表を引受るべき君の精神状態が、今朝《けさ》から回復しかけている事を見て取るや否や、頭を刈ってやったり、大学生の服を着せたり、彼女に引会わせたりなぞ、いろんな事をして、出来るだけ早く君自身を呉一郎と認めさして、自分の味方に取付けて、都合のいい発表をしてもらおうと焦燥《あせ》っていたのだ。……否……現在でも君と吾輩の上下左右に、眼に見えぬ網を張詰めて、グングンと自分の方へ手繰《たぐ》り寄せつつあるのだ」
「……………」
「……しかし吾輩は元来そんな面倒な闘いにお相手になる必要はなかったのだ。どうせ自分自身は電子か何かになって、箒星《ほうきぼし》のお先走りでも承《うけたまわ》るつもりでいたし、一切の財産は軽少ながら、この真相の発表に対するお礼の印として、書類と一緒に一旦若林に預けて、君の頭が回復した後《のち》に改めて引渡してもらう考えでいたし、又、発表の内容だって同様に、心理遺伝そのものの大体の要領さえ得ておれば、附録の実例に出て来る事件の犯人の名前なんぞは、どうでもいい……勝手にしやがれという了簡《りょうけん》で、つい今さっきまでいたんだが……。
……しかし、これが前世の業《ごう》とでもいうんだろう……先刻《さっき》から若林が、彼奴《きゃつ》一流の御叮嚀な遣り口で、そろりそろりと催眠術みたような暗示を君に与えながら、自分の勝手のいい方向に、君の頭を引っぱり込もうとしている態度を見ているうちに、吾輩の持って生れた癇《かん》の虫がジリジリして来た。その若林の見え透いた手の中《うち》がゾクゾクする程イヤ味になって来たので、一つ逆襲してやれという気になって、ここへ出て来た訳なんだが……。
……ところが又……こうやって君と話しているうちに……つい今しがたから、何だか又気が変って来たようだ。理屈は兎《と》も角《かく》として、何もかもがヤタラに面倒臭くなって来たようだ。どうせ破れカブレの罰当り仕事だ。後は野となれ山となれだ。何もかも一思いにブチ毀《こわ》してやれという気になって来たようだ……。
……こうなれあ訳はない……。
……吾輩は今日只今即刻に、君とあのモヨ子とを、この病室から解放してやろう。そうしてコンナ書類を残らず焼棄て、玉無《たまな》しにしてくれよう。
……吾輩は断言しておく……。
……あの六号室の少女モヨ子は、あの解放治療場の一角に突立っている美青年の、妻となるべき少女では断然ないのだ。法律上から云っても道徳上から見ても確かに、そこにいる君の未来の妻たるべく運命付けられている女性なんだ。君のベターハーフたるべく、明暮《あけくれ》、身を悶《もだ》えて、恋い焦《こが》れている可憐の少女に相違ない事が、科学的立場から見ても寸分間違いのない事を、若林と吾輩の専門の名誉にかけて誓言しておく。
……同時に吾輩は、吾輩の専門の立場から今一つ、断言しておく……。
……君はそうしない限り……君自身が進んでモヨ子さんとの結婚生活に入ってみない限り、若林と吾輩がイクラ他所《はた》から苦心努力しても、現在の自己障害……『自我忘失
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