……あんな夢中遊行があったら二度とお眼にかからないよ。……第一、台所の入口の竹の心張棒が落ちた説明からして甚だ明瞭を欠いているじゃないか。いずれ手袋を穿《は》めた手を、戸の間から差し入れて指の股で掴もうと試みたものだろうが、その時に誤って取落した……とでも考えれば説明が付くが……又は難なく無事に外《はず》しておいて、あとで自然に落ちたように見せかけておいた……と考える事も出来るが……しかし、まあいい。イクラ際どいところが抜きにしてあっても、吾輩の説明を聞いておれば一ペンに解るから……。それを吾輩が何故《なにゆえ》に夢中遊行病と断定してしまったかという理由も、同時に判明するんだから……」
私の脳味噌の中の廻転が次第に静まって、やがてヒッソリと停止した。同時に頭の毛がザワザワザワとし初めたのを奥歯でギュッと噛み締めながら眼を閉じた。
「……裁判長……シッカリしないと駄目だぞ。これから先がいよいよ解らない、恐ろしい事ずくめになって来るんだから……ハハ……」
「……………」
「……そこでだ……次にこの調査書類を、よくよく読み味わって見ると、異様に感ぜられる点が二つある。その一ツはツイ今しがた君が疑ったところで、犯人の捜索方法を、ただ呉一郎の記憶回復後の陳述のみに期待して、その他の捜索方法を全然放棄している事である。……それから今一つは呉一郎の生年月日に就いて特別の注意が払ってある点と……この二つだ。いいかい……」
「……ところでその呉一郎の年齢に就いて、この調査書には一つの新聞記事の切抜を参考として挿入してあるのであるが、その記事に依ると、呉一郎の母親の千世子は、明治三十八年頃に家出をしてから一年ばかりの間、福岡市外|水茶屋《みずぢゃや》の何とかいう、気取った名前の裁縫女塾に通っていたが、その間には子供を生まなかったように見える。……で……もしその頃に生まなかったものとすれば呉一郎が生まれたのは、明治三十九年の後半から、四十年一パイぐらいの間だ……という推測が出来る。……但《ただし》、こんな年齢の推定材料の切抜記事は、常識的に考えると、呉一郎が私生児だから、特に念のために挿入したものと考えられるかも知れぬ。又はその当時の話題になっていたこの『美人|後家《ごけ》殺しの迷宮事件』の真相を、古い色情関係と睨んでいた新聞記者が、そんなネタを探し出した。ところが又その記事の中に、虹野《にじの》ミギワなぞいう呉虹汀《くれこうてい》に因《ちな》んだ名前が出て来たりしたので、傍々《かたがた》以てこの調査書の中に取入れたものとも考えられるようでもある。……が……しかし吾輩の眼から見るとそこにモットモット意味深長な、別個の暗示が含まれているように思える。……というのは外でもない。その呉一郎が生まれた年らしく推定される明治四十年の十二月は、この九州帝大の前身たる福岡医科大学が、第一回の卒業生……即ち吾々を生んだ年に当るのだ。……いいかい……」
「……………」
「……ところでこれが又、局外者の眼から見るとチョット根拠の薄弱な、余計な疑いのように見えるかも知れないが実はそうでない。当時の大学生の中に怪しい奴がいた。そいつがこの事件のソモソモの発頭人で、直方事件の下手人も其奴《そやつ》に相違ないという事を、この調査書は云いたくて云い得ずにおるように見える。……これが吾輩の所謂《いわゆる》、自白心理だ。問うに落ちずして語るに落ちるという千古不磨《せんこふま》の格言のあらわれだ。呉一郎が生まれた真実の時日と場所を知っているのは、母親の千世子を除いてはWとMの二人きりだからね」
私は強く肩をユスリ上げた、自分でも意味がわからないままに……。正木博士もその時にチョット沈黙したが、その沈黙は私を無限の谷底に陥れるように深く、私の胸を打った……と思うと正木博士は又、言葉を続けた。
「……そうと気が付いた時に吾輩はゾッとしたよ。おのれ[#「おのれ」に傍点]と思ったが弁解の余地がない。しかも呉一郎の血液を検査して誰の子かを決定する法医式鑑定法の世界的権威はWの手中に在る」
正木博士は南側の窓の所で向うむきにハタと立止まった。悄然とうつむいて唾液《つば》を嚥《の》み込んでいるように見えた。
私は又もわななき出した片手を額に当てた。湧き起り湧き起りして来る胴ぶるえを押え付け押え付けしながら片手でシッカリと膝頭を掴んでいた。
正木博士はやがて太い溜息を一つした。恰《あたか》も窓の外を見るのを恐れるかのようにクルリとこっちを向いた。……黙って……うつむいて……心の動揺を落付けるかのように、大|卓子《テーブル》を隔ててコトリコトリと私の前を横切って行った。そうして北側の窓の処で今度は直角に向《むき》を換えて、窓側とスレスレに往復し初めたのであったが、その心持ちうつむいた姿は、眩しい窓の前を通り過ぎる度|毎《ごと》に、チラリチラリとした投影を、私の眼の前の大|卓子《テーブル》の縁に閃《ひら》めかすのであった。
正木博士は又も念入りに咳一咳《がいいちがい》した。
「……今から二十余年前……福岡の県立病院が医科大学に改造されてこの松原に建直《たてなお》された当時の事、その大学の第一回の入学生として這入って来た青年の中に、WとMという二人がいた。その中でもWは法医学、Mは精神病学という…いずれもその当時の医学界で発達の十分でない方向を志しつつ、互いに首席を争い続けていたが、Wは元来の結核系統の家《うち》に生れたせいか、その当時の学生の中《うち》でも一二を争う好男子の偉丈夫で、性質は念に念を入れる神経質の実際家……Mはまたその頃から矮躯《チビ》の醜男《ぶおとこ》で、空想家の早飲込みのドチラかといえば天才肌という風に、各自正反対の特徴を持っていた……それが互いに鎬《しのぎ》を削《けず》って学業の覇《は》を争っていたのであった。
……然《しか》るに今も云う通りWは法医学、Mは精神病学と、その志す最後の目標は違っていたが、唯一の、その頃はまだソンナ名前すら人が知らなかった精神科学方面の研究に対する二人の興味は、一種の宿命であるかのように一致していた。或《あるい》は二人の頭脳の正反対の特徴の極端と極端とが偶然に一致していたせいかも知れないが……とにかくそのために、特に当時のその方面の権威者、斎藤博士に就いて指導を仰ぐ事になった訳であるが、その中でも又、特に専門の医学と縁の薄い、迷信とか、暗示とかいう問題に対する二人の研究熱は、殆ど沸騰点を突破しているかの観があった。もっともこれは東洋哲学に造詣《ぞうけい》の深い斎藤先生の指導に影響されたせいでもあるが、その結果、福岡から程遠からぬ所に在るこの有名な、恐ろしい伝説に、二人とも相前後して惹付《ひきつ》けられて行くようになったのは、寧ろ当然の帰結と云うべきであったろう。
……今まで一種の敵愾心《てきがいしん》をもって、どことなく折合いかねていた二人は、この伝説に着眼すると同時に、何もかも忘れて握手してしまった。そうして互いに意見を交換して、この問題に対する研究手段の一般方略をきめた結果、Wは『迷信、伝説の起原と精神異状』といったような比較的|質実《じみ》な方面から……又、これに対するMの方は『Wの研究の結果から見た、仏教の因果応報論』もしくは『印度《インド》、及《および》、埃及《エジプト》の各宗教に含まれたる輪廻転生《りんねてんしょう》説の科学的研究』といったような途方もない派手な題目で……いずれにしても相関聯した裏と表の二方面から狙いを付けて、どこまでも突貫して見ようという事になった……が……何しろまだその伝説の正体も突止めない中《うち》から、こんな恐ろしい研究主題《テーマ》を決めて掛った位だから、その当時の二人の意気組みが、如何に素晴らしいものであったかが想像出来るであろう。事実二人とも、この研究を完成するためには、あらゆる人情も良心も、神も仏も踏み潰し蹴散《けち》らして行く決心であった。毛唐人の中でも科学の新境地を開拓した連中の中には、随分思い切った研究手段を執《と》った者がある。特に医学方面の大家の中には学術のために良心を殺して極度に残忍な犠牲を取った例が無数に在って、社会の非難を受けた連中も相当あるが皆、学術のためとか人類文化のためとかいう名の下に敢然として非人道的な研究を断行して来たものらしい。その通りにWもMも、あらゆる犠牲を顧《かえりみ》ずに、この実験を徹底して行こうではないか……と固く約束した事であった。
……二人はコンナ訳で、互いに首席を争う以上の熱度を上げて、協力一致、この伝説の調査を開始したものであったが、ちょうど都合のいい事に、呉家の長女でY子というのが最早《もう》、妙齢になっていて、婿を探しているところであったけれども、田舎の癖として呉家の精神病系統《きちがいすじ》の噂がどこまでも附き纏って行くので、婿に来てくれる者がない。そこで色々と手を尽して探しているうちにヤットの事で、当時、福岡の簀子町《すのこまち》という処に京染悉皆屋《きょうぞめしっかいや》の小店を開いていた渡り者のGという三十男を引っ張って来て間に合わせる事になったが、そんな経緯《いきさつ》のために、一時絶えかけていた呉家の血統《ちすじ》に絡まる伝説が、八釜《やかま》しく復活していたところだったので研究上、非常に便宜であった。
……WとMは、そこでそのような噂や伝説をグングンと突込んで行った。古蹟調査に名を藉《か》りたWが如月寺《にょげつじ》の和尚に取り入って縁起文を盗み写している間に、同じようにして和尚の信用を得たMは、問題の御本尊の弥勒《みろく》様の首を引抜いて見るといった調子で、グングンと求心的に肉迫して行くと実に意外千万な事実を発見した。すなわち如月寺の縁起文の中では、呉虹汀《くれこうてい》の手で焼棄てられた事になっている絵巻物が、実は焼棄てられていなかった……ツイこの間まで御本尊の胴体の中に厳存していたのみならず、それを最近になって何者かが発見して、どこかへスッパ抜きに持って行ってしまっているに相違ない事実が発見されたのだ。
……これは呉家の系図と、これに絡まる伝説の史実的調査だけで満足するつもりであった二人にとって実に思い設けぬ発見であると同時に、非常な失望を齎《もたら》したものであった。けれども、その失望は一時の事であった。若い二人は間もなく前に倍した勇気を盛り返しつつ、今までよりも一層、申合わせを厳重にして、あらゆる方面から手を廻して絵巻物の行衛《ゆくえ》を探索した。そうしてその結果を綜合してみると、その泥亀《すっぽん》抜きの犯人というのは又、意外千万にもY子の妹のT子という美しい女学生に違いないという目星が付いたので、サア事がややこしくなった。少々|中《あ》てられるかも知れないが、裁判長だから仕方があるまい……ハハハ……」
「……………」
「……ところでWとMの二人の提携はここまで来ると又、キレイに断絶する事になった。……アノT子に絵巻物を握られていては事が面倒だ。お寺の御本尊の中に在るのと違って、生きた人間が保管しているのだから盗み出すにしても容易な事ではない。ここいらでこの研究は一時中止しようじゃないか。ウン。そうしよう。いずれ又……とか何とかいうので最初の意気組にも似合わない、恐ろしくアッサリとした別れ方であったが……しかし内実は決してアッサリでない事を、お互いにチャンと見透《みす》かし合っていた。アッサリどころか、前に何層倍した熱烈な決心をもってこの実験を突き貫《ぬ》いてくれよう、どうするか見ろ……と思っている事を、互いに感付き過ぎる程、感付いていた。もっとも二人のそうした決心にはT子の美貌が反映していた事を否定出来ない。……が併しながら呉青秀の忠志と違ってこの実験に対するWとMの誠意ばかりは、今日までも断々乎《だんだんこ》として一貫している筈だ。むろん二人ともだよ。いいかい……」
「……………」
「……ところでその頃の福岡附近は所謂《いわゆる》、角帽の草分け時代で『末は博士か院長さんか』と芸者連が唄うく
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